戦国時代の武将。信濃(しなの)守護職を継承した小笠原氏の嫡流深志(ふかし)家の嫡男として永正(えいしょう)11年11月23日府中林城(ふちゅうはやしじょう)で生まれる。幼名は豊松丸。1608年(慶長13)溝口貞康が主君小笠原秀政のために編纂(へんさん)録上した『溝口家記』などによると、1518年(永正15)の生誕となる。筑摩(ちくま)、安曇(あずみ)両郡と上伊那(かみいな)地方を領国とし、天文(てんぶん)年間(1532~55)武田信玄(しんげん)の攻略と戦った。1550年(天文19)府中を失い村上義清(よしきよ)と結び安曇を維持したが、52年信濃を追われ牢人(ろうにん)となった。越後(えちご)を経て上京した長時・貞慶(さだよし)父子は、広橋国光、山科言継(やましなときつぐ)ら公家(くげ)層との交誼(こうぎ)関係も深く、永禄(えいろく)年間(1558~70)三好長慶(ながよし)を頼り摂津国芥川(あくたがわ)城に滞留。この間将軍足利義輝(あしかがよしてる)、上杉謙信(けんしん)を介して帰国を策したが失敗。織田信長の三好攻略で基盤を失い、長時は流浪し、子貞慶は家康に仕え、1582年(天正10)7月深志城を回復した。この間の長時の行動は不明で、翌天正(てんしょう)11年2月25日家臣に殺された。
[井原今朝男]
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戦国時代の武将。大膳大夫,信濃守,長棟の子。林城に拠り,信濃国安曇,筑摩の2郡を領する。1548年(天文17)武田晴信と塩尻峠に戦い敗れ,翌々年林城を失う。後に上京して三好長慶を頼り摂津芥川城にいたが,68年(永禄11)織田信長に攻略され,上杉謙信のもとに走る。謙信死後,会津に赴き蘆名盛氏の庇護をうける。83年会津若松で家臣に殺される。
執筆者:笹本 正治
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(笹本正治)
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…甲斐出身の中・近世の武家。甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡小笠原(山梨県北巨摩郡明野村と中巨摩郡櫛形町との2説がある)に住んだのに始まる。長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。後に長清は軍功によって阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に伝えられた。長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。…
※「小笠原長時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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