鎌倉時代の武将。小笠原荘(しょう)(山梨県南アルプス市小笠原)の館(やかた)で応保(おうほう)2年3月5日出生。幼名は豊松丸。長兄光朝(みつとも)は平氏、木曽義仲(きそよしなか)に従ったが、二男長清は父遠光(とおみつ)とともに源頼朝(よりとも)に仕え、小笠原氏の始祖となった。遠光が関東知行国(ちぎょうこく)の一つ信濃(しなの)国司に補(ぶ)され、長清も同国伴野荘(ともののしょう)地頭となり、年貢未済を理由に後白河院(ごしらかわいん)から頼朝を介して年貢催促を受けた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)で東山道大将軍となり、反幕公卿(くぎょう)源有雅(ありまさ)を所領甲斐国稲積(いなつみ)荘小瀬村に誅(ちゅう)した。1216年(建保4)頼朝菩提(ぼだい)のため将軍祈願寺を設立、仁治(にんじ)3年7月15日没した。その子孫は、伴野、大井両荘を中心に信濃小笠原氏の基礎を築き、また「馬達者」ともいわれ、6世の孫貞宗(さだむね)は弓馬の道を家芸として将軍家に奉仕する小笠原流を創始した。
[井原今朝男]
(三田武繁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…甲斐出身の中・近世の武家。甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡小笠原(山梨県北巨摩郡明野村と中巨摩郡櫛形町との2説がある)に住んだのに始まる。長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。後に長清は軍功によって阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に伝えられた。長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。…
※「小笠原長清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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