①は、一流のみが存在するのではなく、総領家(現宗家)、赤沢家(平兵衛家とも、現家元家)、京都家(縫殿助家とも、明治に断絶)の御三家があり、分流が多数存在する。御三家は近世、大名あるいは旗本の地位にあり、将軍家以外での礼法活動は行なえなかった。
武家故実から出た兵学、軍学および礼法の流派の一つ。京都小笠原家に発祥した武家故実が、織豊(しょくほう)期に信濃(しなの)小笠原氏の武家故実として諸大名に相伝され、江戸時代には兵学、軍学のみならず女子の書札礼や嫁の躾(しつけ)、礼儀作法として小笠原流が流布した。明治期には女学校の礼法指南書となり、戦時下では文部省が「礼法要項」に小笠原礼法を取り入れたことから、通俗道徳での礼儀作法のあり方を小笠原流とよぶようになった。
武家故実書のなかでは、小笠原氏の祖長清(ながきよ)以来、信濃小笠原家が弓馬礼法について鎌倉・室町・徳川幕府の師範家とされてきた。しかし、史実としては、源頼朝(よりとも)が弓箭(きゅうせん)談義を行い弓馬堪能(たんのう)の故実について相伝の家説、旧記を記録し、流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)以下作物故実は北条泰時(ほうじょうやすとき)・時頼(ときより)に伝えられた(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)のみで、将軍家の弓馬師範が登場するのは室町幕府の将軍足利義教(あしかがよしのり)以降であることが明らかにされた(二木謙一『中世武家儀礼の研究』)。
1430年(永享2)京都小笠原家の備前守(びぜんのかみ)持長(もちなが)が将軍義教の御弓師となったのが初見である(『満済准后(まんさいじゅごう)日記』)。1442年(嘉吉2)11月将軍義勝が就任すると持長の子息民部少輔(みんぶのしょう)持清が「御師範」を勤めた(『康富記(やすとみき)』)。将軍義尚(よしひさ)・義材(よしき)(10代義稙(よしたね)の初名)の代には持清の子息民部少輔政清(法名宗信)が矢開(やびらき)(『長興宿禰記(ながおきすくねき)』)や弓馬之道(きゅうばのみち)を伝授した(『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』)。京都小笠原家はその後尚清(なおきよ)、稙盛(たねもり)、秀清(ひできよ)、長元(ながもと)と続き織田信長に従った。京都小笠原家の武家故実書は、持長(浄元)の『小笠原流手綱之秘書(たづなのひしょ)』『騎射秘抄』や元長(持長の弟政広(まさひろ)の子、播磨(はりま)入道宗長)の『射礼(じゃらい)日記』『犬追物 (いぬおうもの)日記』(尊経閣所蔵)などが伝来する。
信濃小笠原家の大膳大夫(だいぜんだいぶ)長時と貞慶(さだよし)父子は1551年(天文20)武田信玄(しんげん)に深志(ふかし)城を追われ、京都小笠原備前守稙盛を頼り(『醍醐寺文書(だいごじもんじょ)』)、上杉謙信(けんしん)、会津(あいづ)の蘆名盛氏(あしなもりうじ)を頼って流浪した(長野県立歴史館所蔵文書)。この間、長時が武家故実書を作成し、貞慶も天正9年(1581)6月10日に「幕一流之書」を色部(いろべ)修理大夫(しゅりのだいぶ)長真(ながざね)に伝授(『色部文書』)し、その原本が残っている(長野県立歴史館所蔵)。信濃小笠原長時・貞慶の武家故実書は、貞慶の子秀政(松本藩主)から豊前(ぶぜん)小倉(こくら)藩主小笠原家に伝えられ、元禄11年(1698)11月21日に藩主右近将監(うこんしょうげん)忠雄(ただかつ)から遠江守(とおとうみのかみ)忠基に相伝、伝授された(松本市広沢(こうたく)寺所蔵)。京都小笠原家は、持長の弟政広(教長(のりなが))の系統も六郎播磨入道を称して元長、元清、元続(もとつぐ)、康広(やすひろ)と続き、徳川家康に仕え、縫殿助(ぬいどののすけ)を号して長房、持真、持広、持賢、持易(もちかね)、持齢(もちとし)、持暠(じこう)と続き、歴代785石の旗本として射礼師範、先手弓頭を勤め、幕末の鐘次郎の代に講武所弓術師範役を勤め明治維新に至った。これとは別家で、甲斐(かい)を本国とする歴代500石の平兵衛(へいべえ)・孫七を号して先手弓頭、鉄炮頭(てっぽうがしら)を勤めた旗本小笠原家(小笠原赤沢経直(つねなお)の子孫)があった。将軍吉宗(よしむね)のとき、旗本の縫殿助持広と平兵衛常春が弓馬儀礼の制定に参画したと伝え、常春、常喜(つねよし)、住常(すみつね)、常倚(つねより)、常方、常亮(つねあき)、常脇、常高と続き明治維新を迎えた。
大名・旗本小笠原家では礼法教授を生計の手段とすることを禁じたため、小笠原流作法指南に距離を置いてきた。むしろ、江戸初期に浪人の兵法、軍学、武家故実の私塾が三都で勃興(ぼっこう)し、民間に小笠原流兵学が流布した。1632年(寛永9)には『小笠原家礼書』7巻1冊が長時、『小笠原諸礼集』3巻1冊が貞慶の書として『小笠原百箇条』とともに出版され普及した。中期には、江戸大島の水島卜也(ぼくや)が私塾で小笠原流作法を教え、女礼・躾抜要集などを含む『小笠原流諸書』を編纂(へんさん)した。1809年(文化6)には岡田玉山(ぎょくざん)が『小笠原諸礼大全』3巻3冊を刊行した。こうして江戸中期以降、小笠原流は武家から町人衆や僧侶(そうりょ)神官層、村役人層の書札礼や万(よろず)の躾、礼儀、作法を指導するものとして受容され普及した。
明治期には、元小倉藩主・伯爵小笠原忠忱(ただのぶ)が1896年『小笠原流女礼抄』を刊行し、新興ブルジョアの女子教育や女学校の礼法指南書となった。戦時下では、1938(昭和13)~1939年『礼儀作法全集』9巻が刊行され、1941年文部省が「礼法要項」を制定し、「皇室・国家に関する礼法」として小笠原礼法を取り入れ普及させた。講道館も小笠原流の左坐右起を柔道に取り入れ現代に及んでいる。小笠原流は武家故実の枠を超えて礼法一般にまで拡大し、近代国家が必要とした「通俗道徳」の礼儀、作法の指導理念として定着した。戦後民主化のなかで、半封建的道徳の小笠原礼法は顧みられなくなったが、旧小倉藩主小笠原家の子孫忠統(ただむね)(相模女子大学教授・元松本市図書館長)が1980年東京に「小笠原惣領(そうりょう)家礼法研究所」を設立し、現在敬承斎(けいしょうさい)が宗家を称している。これとは別に旧旗本小笠原常方の子孫である小笠原清忠が「小笠原流礼法31世宗家」を称している。
[井原今朝男]
武家諸礼式,弓馬礼法の一流。小笠原氏の弓馬礼式に関して,従来の通説では,《寛政重修諸家譜》や《続群書類従》に収める〈小笠原系図〉の所説によって,鎌倉初期に清和源氏の末小笠原長清が,源頼朝・頼家に弓馬の秘法を伝授し,また長清5代の末貞宗は後醍醐天皇に《修身論》を献じ,その子政長が足利尊氏の師となり,以来,信濃守護小笠原家は長基が義満の師範,政康が義教の師範,持長が義政の師範を務めるなど,歴代将軍の弓馬師範となったとされている。しかしこうした伝承は,いずれも江戸時代の小笠原家によって唱えられたものであり,史実としては疑わしい。良質史料によれば,室町幕府の弓馬故実に関与したのは,信濃守護職の家系ではなく,京都にあり,将軍近習として仕えていた庶流の小笠原氏であり,しかも室町将軍家の弓馬師範としての地位が定まったのは,じつは室町中期,6代将軍義教のころの備前守持長以降であった。むろん頼朝・頼家の師長清,後醍醐天皇の師貞宗といった,それ以前における小笠原氏の弓馬礼式に関する話も信用できない。しかし将軍義教の師となった持長以降,京都小笠原氏が室町幕府周辺の弓馬故実の中心にあったことは事実である。すなわち,持長の子持清は義政の師範,その子政清は義尚・義材の師範を務めている。また諸大名や幕府直臣らの中にも京都小笠原家に弓馬故実を学ぶ者が多かった。一方,信濃小笠原家でも,室町末期には長時,貞慶らが故実研究に興味を示し,多数の故実書を著した。室町幕府の崩壊とともに小笠原両家(京,信濃)も衰運の途をたどったが,一族赤沢経直が小笠原姓に復して徳川幕府に仕え,吉宗のころ貞政が世に出,幕府の弓馬礼式をつかさどり,以来礼式家としての小笠原の名を今日に伝えている。このほか民間では,元禄のころ水島卜也が小笠原流を称して諸礼法を教え,小笠原流の名は,封建時代における女子教養の代名詞とさえされた。
執筆者:二木 謙一
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…若者組はその作法を身につけさせる重要な教育機関であった。室町時代に成立した小笠原流は江戸時代の武士の礼法として一般化し,その武士的な礼法がしだいに町人や百姓の上層部に影響を与えていったし,明治以降は都市生活者や地主層の礼儀作法の基準となった。そのため,農家の子女を,お屋敷奉公とか行儀見習いと称して,都市の富裕層の所へ奉公させ,作法を身につけさせることも行われた。…
※「小笠原流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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