小針村(読み)こばりむら

日本歴史地名大系 「小針村」の解説

小針村
こばりむら

[現在地名]行田市小針

加須かぞ低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉わかこだま村、東は見沼代用水を隔てて下須戸しもすど藤間とうま二村。「是より西、忍領」の封標が下総常陸へ通じる幸手さつて道にあった。約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉さきたま沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)


小針村
こばりむら

[現在地名]新潟市小針一―八丁目・小針藤山こばりふじやま小針上山こばりかみやま小針南台こばりみなみだい小針南こばりみなみ小針が丘こばりがおか小針台こばりだい真砂まさご一丁目・寺尾朝日通てらおあさひどおり坂井東さかいひがし一丁目

西にし川左岸に立地し、東は市左衛門郷屋いちざえもんごや新田村、西は寺尾新田村坂井村に接する。正保国絵図に村名がみえ、高一七八石余、長岡藩領。元禄郷帳では高二四一石五斗余を記す。安永二年(一七七三)の坂井組割付帳(吉田ツタ氏蔵)では古新田の高二三三石三斗余、延宝四年(一六七六)から宝永五年(一七〇八)にかけて開発された新田高一七石四斗とみえ、一部は宝暦七年(一七五七)洪水で砂入地や田畑成となっている。


小針村
こばりむら

[現在地名]岡崎市小針町

矢作川右岸の沖積地を東に望む碧海へきかい台地の崖端上に立地。北は上野うえの村・福受新郷ふくじゆしんごう(現豊田市)、東は橋目はしめ村、南は西大友にしおおとも村と柿崎かきさき(現安城市)、西は尾崎おざき村・大浜茶屋おおはまぢやや(現安城市)に接する。崖端上には小針古墳群小針城跡・古屋敷などの遺跡がある。


小針村
おばりむら

[現在地名]小牧市小針

上小針かみおばりともよばれ、小針巳おばりみ新田のまたの名、下小針と区別されているが、江戸期には小針巳新田・小針入鹿おばりいるか新田とを含めて小針村とよばれていた。天保の村絵図でも三地区が一つになっている。東は一之久田いちのくた村、西は小木こき村、北は小牧村に接している。織田信雄分限帳に「七百貫文 おはり 岡崎殿」とある。「府志」にも「尾張の国名発祥の地」との記述がある。

「徇行記」によれば田は三四町六反五畝余、畑は三〇町八反八畝余、概高一千三三石余のうち九七七石余が藩士一〇人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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