日本大百科全書(ニッポニカ) 「少弐貞経」の意味・わかりやすい解説
少弐貞経
しょうにさだつね
(1272―1336)
鎌倉末~南北朝初期の武将。盛経(もりつね)の子。法名妙恵(みょうえ)。大宰少弐(だざいのしょうに)・大宰府執行職(しぎょうしき)、筑後守(ちくごのかみ)。鎌倉末期に筑前(ちくぜん)・対馬(つしま)守護となり、建武(けんむ)年間(1334~38)に豊前(ぶぜん)国守護職を加えた。所領は、筑前・対馬のほか、肥前(ひぜん)に散在、さらに東海道遠江(とおとうみ)国にもあった。1333年(元弘3・正慶2)3月、菊池武時(たけとき)が鎮西探題(ちんぜいたんだい)北条英時(ほうじょうひでとき)を襲撃した際は、英時方にたち武時を敗死させたが、同年5月には、他の九州守護大友貞宗(おおともさだむね)・島津貞久(しまづさだひさ)らと英時を討ち、探題を滅ぼした。35年(建武2)末、足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武政権に反旗を翻すと、尊氏方にたったが、翌年2月末、菊池武敏(たけとし)らの攻撃を受け大宰府の有智山(うちやま)城(福岡県太宰府(だざいふ)市内山)で自殺した。翌月初めの筑前多々良浜(たたらはま)の戦いで大勝した尊氏は、その死を悼み、大宰府滞在中に大宰府安養院(あんよういん)を建て、菩提(ぼだい)料田として筑前国小田(おだ)郷を寄進し、諷誦文(ふじゅもん)をなした。
[山口隼正]