菊池武時(読み)キクチタケトキ

精選版 日本国語大辞典 「菊池武時」の意味・読み・例文・類語

きくち‐たけとき【菊池武時】

  1. 鎌倉後期の武将。肥後の人。法名寂阿。元弘三年(一三三三隠岐を脱出した後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎮西探題北条英時を攻めたが、敗れて戦死。元弘三年(一三三三)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菊池武時」の意味・わかりやすい解説

菊池武時
きくちたけとき
(?―1333)

鎌倉末期の肥後(熊本県)の武将。幼名正竜丸。次郎とも称した。兄時隆(ときたか)のあと、惣領(そうりょう)となる。幕府裁許の執行にあたる両使(りょうし)役を勤めるなど有力御家人(ごけにん)の一人であったが、1333年(元弘3・正慶2)護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を受け、3月13日北条英時(ひでとき)が構える博多(はかた)の鎮西探題(ちんぜいたんだい)館に討ち入り、一族200余名とともに戦死した。没年には42歳、53歳、64歳説がある。首塚が福岡市六本松に、胴塚が同七隈(ななくま)にある。近年博多駅近くの祇園(ぎおん)町の探題館跡近くから、30余体の頭骨が発掘され、武時一党のものではないかと議論されている。剃髪(ていはつ)法号真空寂阿(しんくうじゃくあ)、妻は赤星有隆(あかぼしありたか)の女(むすめ)慈春尼(じしゅんに)。

[工藤敬一]

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改訂新版 世界大百科事典 「菊池武時」の意味・わかりやすい解説

菊池武時 (きくちたけとき)
生没年:1292?-1333(正応5?-元弘3)

鎌倉末期の武将。隆盛の子。肥後守。法名真空寂阿。1333年初め,伯耆船上山に挙兵した後醍醐天皇もとに参じ,3月,鎮西探題北条英時を攻めた。しかし,少弐貞経,大友貞宗らの変心によって,武時はそこに敗死した。武時の死後菊池氏は,その子息武重・武光が継ぎ,合わせていわゆる“菊池氏三代”と称せられ,九州における南朝方勢力の中心的存在であった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「菊池武時」の解説

菊池武時
きくちたけとき

1272/81/92~1333.3.13

鎌倉末期の武士。肥後国の豪族菊池武房の孫。隆盛の次子。通称次郎。法名は寂阿(じゃくあ)。兄時隆が一族の内紛により殺害されたのち,菊池家の家督を継ぐ。1333年(元弘3)伯耆国船上山(せんじょうさん)に拠った後醍醐天皇の綸旨(りんじ)をうけ討幕を決意。同年3月,鎮西探題赤橋英時の九州の御家人召集を機に,一族とともに博多にむかい,13日未明,博多市街に火を放ち探題館を襲撃。しかし少弐貞経・大友貞宗の裏切りもあって,奮戦むなしく敗死。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菊池武時」の意味・わかりやすい解説

菊池武時
きくちたけとき

[生]正応5(1292).肥後,菊池
[没]元弘3=正慶2(1333).3.13. 博多
鎌倉時代の肥後の武将。出家後寂阿と号する。元弘3=正慶2 (1333) 年,後醍醐天皇が配流先の隠岐から伯耆に脱出した際,倒幕の密勅を得て鎮西探題北条英時を博多に攻めた。しかし,九州守護層の少弐貞経,大友貞宗らが離反したため,戦いに敗れ子頼隆らとともに死んだ。武時の行動は,以後,菊池氏が九州の南朝方勢力の中核となる端緒となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊池武時」の解説

菊池武時 きくち-たけとき

?-1333 鎌倉時代の武将。
菊池隆盛の次男。肥後(熊本県)菊池氏惣領(そうりょう)12代。伯耆(ほうき)(鳥取県)船上山(せんじょうさん)からの後醍醐(ごだいご)天皇の討幕の呼びかけに応じて鎮西(ちんぜい)探題赤橋英時を攻めるが,正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年3月13日子の頼隆,弟の覚勝とともに敗死した。享年には42,53,64の諸説がある。幼名は正竜丸。通称は次郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「菊池武時」の解説

菊池武時
きくちたけとき

1292?〜1333
鎌倉時代の武将
肥後の豪族で,1333年,後醍醐 (ごだいご) 天皇の隠岐脱出に呼応して九州で挙兵。鎮西探題北条英時を攻めたが,少弐・大友氏が離反したため敗死。

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世界大百科事典(旧版)内の菊池武時の言及

【菊池氏】より

…肥後の豪族。中関白道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝えられてきたが,先年,刀伊入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官藤原政則(まさのり)(蔵則,蔵規とも書く)の子孫であると判明した。肥後北部菊池郡を本拠とし,やがて代々肥後守。鎌倉末,武時は,後醍醐天皇の命を受けて鎮西探題北条英時を攻めて討死。武時の子孫は,南北朝期,いずれも南朝方に立って征西将軍宮を奉じ,九州宮方勢力の中心となる。とくに,そのうち肥後国守・守護を兼帯した武光の軍事力は大きく,南北朝中期,九州宮方―征西府の隆盛を招いた。…

【肥後国】より

…こうして阿蘇氏,菊池氏などの不満が高まり倒幕勢力に転化していく。
[南北朝期の動向]
 1333年(元弘3)3月,菊池武時は一族ら200余騎で博多の探題(北条英時)館を襲った。武時は敗死したが,まもなく鎌倉幕府は倒れ,建武政権が成立する。…

※「菊池武時」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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