尚真(読み)しょうしん

精選版 日本国語大辞典 「尚真」の意味・読み・例文・類語

しょう‐しん シャウ‥【尚真】

琉球、第二尚氏王朝の三代目の王。琉球を統一した中山王、尚円の子。一二歳で即位外交・貿易を振興し、強固な中央集権制を確立。尚王朝の全盛期をつくりだした。(一四六五‐一五二六

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朝日日本歴史人物事典 「尚真」の解説

尚真

没年:尚真50.12.11(1527.1.12)
生年:尚徳5(1465)
15世紀後半から16世紀,琉球王国の第二尚氏王朝3代の王で,琉球の黄金時代を現出した。神号を於義也嘉茂慧という。在位50年(1477~1526)は歴代国王で最も長い。父は第二尚氏王朝の始祖尚円,母は宇喜也嘉。尚円が死去したとき,群臣は会議を開き,王子尚真はまだ幼少との理由で王位を尚円の弟尚宣威に継がせた。これを不満とした母の宇喜也嘉は首里城内の宗教勢力をそそのかし,尚宣威の治世は凶事であり,神は尚真の即位を望んでいると告げさせた。神意に背いたと知った尚宣威は退位し,尚真が弱冠12歳で王位に昇った。その後,宇喜也嘉は幼少の王を補佐して国政に関与し,国民から女君と噂されるほどの権力を持ったが,尚真は成長するにつれて母の影響を脱し,独自の施策を展開するようになる。 尚真3(1479)年,中国(明朝)皇帝の派遣した冊封使が,首里城における儀式で「汝,尚真を琉球国王に封ず」と宣言した(冊封の儀式)。歴代国王の慣例であり,これにより尚真の地位は外交的に認知された。この外交関係を前提に尚真は中国に毎年のように貿易船を送り,大量の中国商品を入手した。そして,日本やシャム,マラッカなどの東南アジア諸国に貿易船を送り,中国商品を売りさばくとともに,それぞれの特産品を仕入れこれを中国に輸出するという典型的な中継貿易を推進した。貿易は国王の経営するものであったから,海外貿易の発展はそのまま王国の経済基盤の強化につながった。 尚真は王を頂点とする官僚組織を編成するとともに,各地の按司(豪族)を首里に集居させて監視下に置いた。北は奄美諸島から南は八重山諸島におよぶ島嶼を版図として確定し,それぞれの島・地域に役人を配置している。また,宗教的な支援を強化するために,上は聞得大君から下は地方神女であるノロに至るピラミッド型の神女組織を確立している。そしてまた,首里城を増築し,城付近に王家の菩提寺である円覚寺や王家の墓(玉陵)を創建するなど幾多の造営事業を手がけている。尚真46(1522)年,首里城から那覇港に至る軍用道路を整備したが,道は石畳で舗装され,両側に松並木を植える大がかりな工事であった。同33年,首里城正殿の欄干に自らの功績を刻ませているが,そのなかで中国の制度を手本に王国を整備し,並ぶ者のない活気あふれる治世を現出したと誇っている。だが,尚真のやり方に対する抵抗もあり,同24年に八重山で起こった遠弥計赤蜂の乱は特に有名である。これらの地域抵抗を排除しながら,未曾有の絶頂期を形成した。自ら造営し父母の眠る王家の墓,玉陵に葬られた。当時の神歌は,尚真を「天から地上の世界に至るまでの王」と讃えている。<参考文献>高良倉吉『新版・琉球の時代』『琉球王国』

(高良倉吉)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尚真」の意味・わかりやすい解説

尚真
しょうしん
(1465―1526)

琉球(りゅうきゅう)王国の最盛期をつくりあげた王。神号於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。第二尚氏王朝の開祖尚円(しょうえん)を父に、オギヤカを母に生まれた。1476年、尚円が死去すると、群臣は世子尚真いまだ幼少との理由により尚円の弟尚宣威(しょうせんい)を2代目の王とした。ところが即位後まもなく尚宣威は尚円妃オギヤカの策謀により退位させられ、弱冠12歳で尚真が3代目の王となった(1477)。以後死去までの50年間王位に君臨し、琉球王国の歴史に一時代を画する施策を展開した。

 まず外交・貿易の振興を国策の第一とした。とくに中国(明(みん))との関係強化に努め、年平均5隻の船舶を中国に派遣するなど中国貿易を飛躍的に前進させた。そのほか、日本や朝鮮、東南アジア諸国(シャム、マラッカ、安南(あんなん)、スンダ、パタニ)との間にも活発な貿易を行っている。次に国内政策では、各地で隠然たる勢力を保っていた按司(あんじ)を王都首里(しゅり)に集居させ、王を頂点とする位階制のなかに彼らを編成した。敵対者に対しては武力を用いて平定するという強行策もとっている(1500年の八重山(やえやま)のアカハチ・ホンガワラの乱平定など)。国家機構の整備、地方統治制度の強化も行っており、また聞得大君(きこえおおぎみ)を頂点とする神女組織も確立している。円覚寺の建立(1493)、真玉道(まだんみち)の築造(1522)などの土木建築事業を営み、王の事蹟(じせき)を顕彰するため多くの碑文が立てられた。オモロは「天と地上をあわせた世界の王」と彼の絶対的な権威ぶりをうたっている。こうして、首里を拠点とし、北は奄美(あまみ)諸島から南は八重山諸島に及ぶ島嶼(とうしょ)を版図とする琉球王国が確立された。1526年12月11日死去。彼自ら造営した王家の墓玉御殿(たまうどぅん)(玉陵)に葬られた。

[高良倉吉]

『高良倉吉著『琉球の時代』(1980・筑摩書房)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尚真」の解説

尚真
しょうしん

1465~1526.12.11

琉球王国の第二尚氏王統3代目の王(在位1477~1526)。在位50年は歴代国王中最も長い。王朝の開祖尚円の長男で,12歳で王位につく。中国(明朝)との貿易を活発にし,その財力で王国の基盤を固めた。王を頂点とする組織体制を強化し,地方役人制度も刷新した。各地で隠然たる勢力を保持する按司(あじ)(豪族)層を首里(しゅり)に強制移住させ,神女組織を編成して宗教を統制するなど斬新な施策を推進。首里城の増築,王家の菩提寺である円覚(えんかく)寺や王家墓(玉陵(たまうどうん))の創建など幾多の造営事業も手がけた。治世中は王国が最も充実した時期で,琉球の黄金時代と評される。

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