尼寺村(読み)にじむら

日本歴史地名大系 「尼寺村」の解説

尼寺村
にじむら

[現在地名]石井町石井 尼寺

白鳥しろとり村の東、気延きのべ山の北東麓にある。東は名東みようどう観音寺かんのんじ(現徳島市)、南は内谷うちだに村。地名は奈良時代に建立された国分尼寺にちなむ。伊予街道が通る。天正一七年(一五八九)五月二八日の下羅井番水定書(坂東家文書)に村名がみえ、慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図には「にんち」とみえる。慶長二年の分限帳によると坪井十兵衛が八二石を知行。正保国絵図では尼寺村として高八一石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳には村名に「にじ」と振仮名が付され、田方六四石余・畠方一七石余、芝山の注記がある。


尼寺村
にいじむら

[現在地名]大和町大字尼寺

上佐賀下郷に属し、国分尼寺に由来する地名。現在も国道二六三号が南北に、久留米小城おぎ線が東西に走り、その交差点に位置する交通の要衝である。肥前国衙に近く、古代肥前の政治・文化の中心。嘉瀬かせ川の川上かわかみ扇状地に立地し、南小路みなみしようじからは合口甕棺を伴った支石墓や広形銅戈が発見され、弥生文化が南部の水田地帯を背景に発展していた。東町ひがしまちには築山つきやま古墳がある。

奈良時代に国分尼寺が僧寺とともに建立された。位置は明確ではないが、礎石などから大昌だいしよう寺跡ではないかと考えられている。


尼寺村
あまでらむら

[現在地名]貴志川町尼寺

御茶屋御殿おちややごてん山の南西麓に広がる。西は鳥居とりい村、南は上野山うえのやま村。村の南部を貴志川の支流丸田まるた川が北東に流れる。「続風土記」は「村中観音寺といふ伽藍地あり、美福門院御創建の寺なり、因りて呼ひて尼寺といふ、後遂に転して村名となれり」と記す。中世は貴志庄に属したと思われる。慶長検地高目録によると村高三九六石余、小物成一升七合。天保郷帳では村高四二二石余と増加。小倉組に属し、「続風土記」は家数七二、人数二六四、社寺として観音かんのん(真言宗山階派)花蔵けぞう寺、蓮乗れんじよう(浄土真宗本願寺派)を記す。


尼寺村
にんじむら

[現在地名]三田市尼寺

志手原しではら村の北西に位置し、東は川辺かわべ市之瀬いちのせ村。正保郷帳の訓は「にじ」。有馬富士ありまふじの北裾の山間谷底平野に立地する。北部に花山かざん院があり、同院への巡礼道が中央を通る。現篠山市今田町本荘こんだちようほんじようの住吉神社が所蔵する大般若経巻二一〇の明応二年(一四九三)一一月の奥書に「有馬郡菩提寺之坂本尼寺村」とみえる。元亀元年(一五七〇)の村絵図(尼寺区有文書)に家数一九が記されている。慶長国絵図にニンチ村とみえ、高二一〇石余。正保郷帳では高二四二石余。寛政年間(一七八九―一八〇一)飯森いいもり新田が分離したという(「御領分御高付覚」九鬼家文書)。しかし郷帳類では以降も尼寺村一村で高付された。


尼寺村
にじむら

[現在地名]西郷町有木あらき

有木村の南西方、通称尼寺山に位置する。村名は古代の隠岐国分尼寺に由来する。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一五石余・一町一反余、畑一石余・一町一反余で、真言宗の尼寺があり、家一、牛馬各二とあるが、国分寺こくぶんじ村の項に竈役銀などが併記されており、同村とのつながりがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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