日本歴史地名大系 「尼崎城跡」の解説
尼崎城跡
あまがさきじようあと
〔池田氏の時代〕
天正八年(一五八〇)八月一八日織田信長は摂津の地を池田恒興(信輝)、之助・輝政父子に与え、輝政は尼崎の城に入った(寛永諸家系図伝)。本能寺の変後の同一一年五月二五日、羽柴秀吉は池田父子を美濃国に移し(多聞院日記)、同一三年閏八月二二日尼崎を領有させていた三好秀次を近江国に転封(古蹟文徴)、この時に尼崎は秀吉の直轄地となったらしい(尼崎市史)。同一二年または一三年頃建部寿徳(高光)が尼崎郡代となり(同書)、尼崎と付近の直轄領三万石を管掌して尼崎城に在勤した(「建部家系図」建部家文書)。慶長一二年(一六〇七)寿徳が尼崎で没し、同一三年光重が後を継いだが同一五年同地で死去、世嗣政長は当時八歳であったため、外祖父池田輝政の口添えと徳川家康の執成しで跡職を相続、続いて尼崎城に居住、母方の下間家の当主下間重利に政長を後見させることとした(同系図)。大坂の陣のとき建部政長は一二歳の幼少であった。幕府は池田(下間)重利を同一九年五月尼崎代官に任じ(下間家系譜)、池田利隆は家臣宮城筑後・田宮対馬・南部越後を尼崎に遣わして一族の建部与十郎とともに政長を支援させた。政長は支配下の村人を人質として城内に止め、兵粮米が大坂方に渡るのを防いだという。同二〇年二月徳川家康は池田利隆の家臣大村伊織・竹腰八郎兵衛・村瀬平右衛門を尼崎加勢に遣わし、同年三月には八田豊後に尼崎籠城を命じた。また内藤信正とその子信照を尼崎御番に、戸川達安を尼崎加番とし尼崎警固を命じた(尼崎市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報