尼崎城跡(読み)あまがさきじようあと

日本歴史地名大系 「尼崎城跡」の解説

尼崎城跡
あまがさきじようあと

[現在地名]尼崎市北城内・南城内

瀬戸内海に注ぐ神崎かんざき川と庄下しようげ川の河口デルタ上に所在する平城跡。庄下川と北側を流れる大物だいもつ川を導き、運河を通して外堀とした。一六世紀前半細川氏が築いた城が前身と伝える。江戸時代は譜代大名の居城で、主として尼崎藩の藩庁が置かれた。元和四年(一六一八)戸田氏鉄が新城の建設に着手、城下町のほぼ中央に位置し(「城内・城下間数・家数書上」尼崎市教育委員会所蔵文書)琴浦ことうら城・きん城とよばれた(尼崎市史)

〔池田氏の時代〕

天正八年(一五八〇)八月一八日織田信長は摂津の地を池田恒興(信輝)、之助・輝政父子に与え、輝政は尼崎の城に入った(寛永諸家系図伝)本能寺の変後の同一一年五月二五日、羽柴秀吉は池田父子を美濃国に移し(多聞院日記)、同一三年閏八月二二日尼崎を領有させていた三好秀次を近江国に転封(古蹟文徴)、この時に尼崎は秀吉の直轄地となったらしい(尼崎市史)。同一二年または一三年頃建部寿徳(高光)が尼崎郡代となり(同書)、尼崎と付近の直轄領三万石を管掌して尼崎城に在勤した(「建部家系図」建部家文書)。慶長一二年(一六〇七)寿徳が尼崎で没し、同一三年光重が後を継いだが同一五年同地で死去、世嗣政長は当時八歳であったため、外祖父池田輝政の口添え徳川家康の執成しで跡職を相続、続いて尼崎城に居住、母方の下間家の当主下間重利に政長を後見させることとした(同系図)。大坂の陣のとき建部政長は一二歳の幼少であった。幕府は池田(下間)重利を同一九年五月尼崎代官に任じ(下間家系譜)池田利隆は家臣宮城筑後・田宮対馬・南部越後を尼崎に遣わして一族の建部与十郎とともに政長を支援させた。政長は支配下の村人を人質として城内に止め、兵粮米が大坂方に渡るのを防いだという。同二〇年二月徳川家康は池田利隆の家臣大村伊織・竹腰八郎兵衛・村瀬平右衛門を尼崎加勢に遣わし、同年三月には八田豊後に尼崎籠城を命じた。また内藤信正とその子信照を尼崎御番に、戸川達安を尼崎加番とし尼崎警固を命じた(尼崎市史)

〔尼崎藩の成立〕

元和元年七月二一日、建部政長は摂津国川辺かわべ郡内に五千六一四石余、欠郡内に四千九三五石余の都合一万石を与えられて大名となった(建部家系図・「譜牒余録」)。ほかに川辺郡のうちの一〇村・七千八二〇石余を預かった。同三年七月播磨国揖東いつとう郡のうちに所替となり、同郡林田はやしだ(現姫路市)に移住(尼崎市史)池田重利も元和元年七月二一日川辺郡内に四千四二三石余、欠郡内に五千五七六石余を宛行われ(「徳川家康領知黒印状」岩坂家文書)、一万石の譜代並大名になった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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