尾高城跡(読み)おだかじようあと

日本歴史地名大系 「尾高城跡」の解説

尾高城跡
おだかじようあと

[現在地名]米子市尾高

尾高集落の北東部、大山西麓の標高四〇メートルの段丘上にあり、入込んだ谷を利用して築城された中世城郭。初めいずみ城・泉山いずみやま城ともよばれた。昭和四九年(一九七四)から宿泊研修施設の建設に伴って四次にわたり発掘調査され、建設計画と城郭遺構保存の調整が行われた結果、大部分が整備保存となった。築城の時期は不明。軍記物語などで当城の名が表れるのは、大永四年(一五二四)尼子氏の伯耆進出に伴う大永の五月崩れの際である。だが、発掘調査では鎌倉時代頃にさかのぼる出土品が得られており、縄張りの中央にある方形館跡の郭を中心に、古くから西伯耆の拠点となっていたと考えられる。

城跡は主要な八つの郭、本丸・中の丸・二の丸・天神てんじん丸・南大首みなみおおくび・館・こしまえ・第IV郭をはじめ、ほかに付属的な小郭を連ねた連郭式の縄張りをもつ。西側の段丘際に北から南へ二の丸・本丸・中の丸・第IV郭・天神丸と連なり、その背後に越ノ前・方形館・南大首が配されている。南大首の南側の堀外にも建物跡が確認され、周辺にも遺構の広がりが考えられる。各郭とも切岸と土塁で守られており、腰郭をいくつか付し複雑な構えである。

城跡は西側段丘側正面約四〇〇メートル、東西奥行二〇〇メートルにわたる。第IV郭の南に岡成おかなり地区への通路(明治三九年開通の新大山道路、現主要地方道米子―大山線)を隔てて天神丸が並ぶ。各郭の西側は切立った崖で、他の三方に堀をめぐらす。本丸・中の丸の東に方形館跡、その北西の低い舌状台地に倉庫跡と伝える一画、方形館跡の北に越ノ前、南に南大首の郭状施設がある。西方断崖下の郭状平坦部は山下さんげと称する。二の丸と本丸の境に泉水跡と伝える池状に落込んだ切石組が残る。最大規模の郭本丸は土塁を東・南・西にもち、西側土塁は中央部に切れ目があり、山下から本丸への出入口的施設と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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