山北村(読み)やまきたむら

日本歴史地名大系 「山北村」の解説

山北村
やまきたむら

[現在地名]浮羽町山北

耳納みのう山地東部山麓、隈上くまのうえ川右岸に位置し、北東は筑後川に沿う。「和名抄」所載の生葉いくは郡山北郷の遺称地で、中世は山北封が成立。日田街道が通り、村内に一里塚があった(元禄国絵図)。正保四年(一六四七)の大小道之帳では溝尻みぞしり村から当村まで一九町三〇間、当村から豊後境まで一里九町二八間で石井いしい(現大分県日田市)に至った。天正一九年(一五九一)三月二日の検地名寄帳(農政農民史料集)に「壱番名島御領」とあり、惣田数七三町七反半余・分米三四一石余、うち当荒八町七反半・分米二〇石余、残現田数六五町余・分米三二一石余。文禄四年(一五九五)一〇月一五日の検地帳(同書)の表紙には山口玄蕃内南部武右衛門組下之村と肩書され、田七三町一反余・分米六三六石余、畠二一町一反余・分大豆九二石余、居屋敷二町余・分米二〇石余で、都合九六町三反余・分石八五三石余、うち「えほし」(上乗せ分か)一〇三石余。寛永二年(一六二五)の物成納払帳(河北文書)によると物成は本米二九七石余・口米八石余・俵付米二石余、本大豆二四石余・口大豆七斗余・俵付大豆二斗余。


山北村
やまぎたむら

[現在地名]香我美町山北

聞楽きくらく山の南東麓の村で、山南やまみなみ村の北西にある。村内を山北川が南西流し、流れを下るに従い水田が広がり、聞楽山山腹には畑地が多い。村名は山南村との境に連なる丘陵の北側に位置することにちなむという。応安元年(一三六八)一一月七日付の源義信裁許状(香宗我部家伝証文)に、当村西端の笠原かさはらの地名がみえ、大忍おおさと庄と香宗我部こうそがべ(現野市町など)との境の地であったことがわかる。応永二九年(一四二二)八月日の大忍庄内検帳(安芸文書)に「山北」とみえる。永享八年(一四三六)一〇月二〇日の行宗名年貢米注進状(行宗文書)には「大里庄山北東分西川行宗名」とみえ、当時山北のうちに西川にしがわの一部が含まれていたことが知られる。

江戸時代の山北村は、天正一六年(一五八八)大忍庄地検帳にみえる遠崎とおざき上次かみつぎ有岡ありおか前田まえだ・奥谷・惣力そうりき生能寺しようのうじ安弘やすひろ・深田・ヨ谷・カマイ谷・徳中・安松・イツクミ・平等寺びようどうじ・大北の各小村と大畠村大部分の地にあたる。


山北村
やまぎたむら

[現在地名]前原市山北

高上たかうえ村の東に位置し、東は瑞梅寺ずいばいじ村・井原いわら村。二通の天正八年(一五八〇)二月三日の原田了栄知行坪付(児玉採集文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))に「山北」とみえ、石井彦八郎に二反半、波多江平左衛門に二反が与えられている。小早川時代の指出前之帳では田一四町余(分米一八〇石余)・畠二町九反余(分大豆一六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四一三石余、うち大豆四四石余(慶長石高帳)。福岡藩領。元禄五年(一六九二)の高四二〇石余、うち畠四四石余、反別二八町八反余、家数二〇・人数一三二、社一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。文化三年(一八〇六)には武士が在村した(筑前西郡史)


山北村
やまきたむら

[現在地名]津山市山北・北園町きたぞのちよう

津山城下町北部に隣接し、西北条さいほくじよう郡に属する。東端をみや川が流れ、東南条とうなんじよう郡との境となる。中央より西はゆるやかな丘陵地となり小田中おだなか村へ続く。慶長五年(一六〇〇)の小早川秀秋宛行状(県立博物館所蔵文書)で、九三二石余の「西北条郡山北村」など五村が木下信濃守俊定に与えられている。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。


山北村
やまきたむら

[現在地名]宿毛市山北

野地のじ村の北、ささ川が土予国境に沿って南流するところ、篠川中流から上流にかけての村で、宿毛郷の一村。村域は広大で「土佐州郡志」は「市之股・板之川・大奈路・中小路・下小路・中之川・小窪川・高津川原・小川・本村十村惣曰山北、縦横二里余、戸凡四十余、其土赤」と記す。山北の村名は江戸時代に入って新しく称されたもので、それ以前は久甫川くぼかわ(窪川)村といった。


山北村
さぼくむら

[現在地名]福山市瀬戸せと町山北

早戸はやと村の東に位置し、「備陽六郡志」は「昔は左福村と書けるか、いつの比よりか、山北と改侍り」と記す。文明一七年(一四八五)閏三月二九日付備後国尾道権現堂檀那引注文(熊野那智大社文書)山南さんな(現沼隈郡沼隈町)とともに山北がみえる。なお「福山志料」の引く明細帳には「長和村筒井マテモト此村内ニテ池木楢木ハ赤坂ノ内ナリシ」とあり、天正一九年(一五九一)一二月九日付の打渡坪付(「譜録」所収高州五左衛門家文書)に「山北内筒井村」とみえる。


山北村
やまのきたむら

[現在地名]丸亀市山北町やまきたちよう

城下の南に位置し、地方じかた村の南にあり、丸亀・金毘羅街道が通る。もと那珂なか柞原くばら村に含まれたが、慶長七年(一六〇二)山北八幡宮を当地に移したことから、寛永一九年(一六四二)、山北村と命名されたと伝える(西讃府志)。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳では高二二三石余。「西讃府志」によると高三八八石余、反別は三八町七反余、うち畑七町三反余・屋敷二町三反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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