大畠村(読み)おおはたむら

日本歴史地名大系 「大畠村」の解説

大畠村
おおはたむら

現佐原市新市場にいぢばから香取付近に比定される中世の香取社領の村。嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に「限北太田・吉原・大畠堺」とみえ、嫡子真房(実房)に譲られた織幡おりはた村の北西に接していた。応保二年(一一六二)「大畠村」の字大歳畠に五反の畠、当村の東方峰畠の字久畠に二反の金丸かねまる名・犬丸いぬまる名の畠があり、大中臣実房から大禰宜職とともに嫡子前神主惟房に譲与されている(同年六月三日大禰宜実房譲状)。文応二年(一二六一)当村の麦畠の検注が行われている(同年五月一〇日大畠村麦検注取帳)。永仁元年(一二九三)大中臣実秀が神主職を解任され、代わって大中臣実康が神主に補任されると両者の間に相論が起こり、正安元年(一二九九)以降、実秀は当地などにある別相伝の地を新神主実康が神主職にこと寄せて押領したと訴え、認められてしまった。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]鳥取市大畑おおばたけ

大谷おおたに村の南西にある。集落は西方の山の南麓にあり、その南西の山麓に支村かせだに、さらに南西に延びる谷の中ほどに支村堤見ていみの集落がある(因幡志)。堤見から北西へ越える峠は道祖の乢さいのたわとよばれ、福井ふくい村の辛川からかわ谷へ出る。さらにそこから西方へ峠を二つ越すと気多けた郡へ入る。当村を通るこの経路は伯耆街道鹿野しかの往来の中間にあるので、中道なかみち通とよばれた(因幡志)。堤見には年未詳であるが「右ハかちみ道、左ハよしおか」と刻む道標が現存する。鹿野往来吉岡よしおか(湯村)から南西に向かうが、中道通は同村から西方へ分岐し気多郡の勝見かちみ(現鹿野町・気高町)に向かうものであったと考えられる。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]大畠町大字大畠

玖珂郡の東南端、大畠の瀬戸に面し、神代こうじろ遠崎とおざきの両村に挟まれた村。江戸時代は大島郡に属し、岩国藩領。対岸の大島(屋代島)への渡り口として早くから開けたらしいが、瀬戸内交通の要地でもあった。

康応元年(一三八九)の「鹿苑院殿厳島詣記」三月一二日条に「大畠のなるととて、しまじまあまたある中を」とあり、「蔭涼軒日録」文明一八年(一四八六)七月三日条には、遣明船よりの書状として「其後防州大畠留滞、与大内居所二日程(中略)海上海賊多浮云々」と記す。中世はこの辺りに海賊が多く、大畠もその根拠地の一つであったらしいことは、文明三年に朝鮮の申叔舟が著した「海東諸国紀」の周防州の項に「芸秀 丁亥年(応仁元年)、遣使来賀雨花、書称周防州(ママ)畠大守海賊大将軍源朝臣芸秀」とあることからも知られる。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]上月町西大畠にしおおばたけ

上月村の西、宇根うね村・須安すやす村の南に位置し、大畑とも記した。現佐用町の大畠村に対して西庄大畠村とも称した(元禄郷帳など)大日山おおびやま川沿いに西進し、万能まんの峠を越えて美作国に入る道に沿ってかしぶち越田和こえだわ判官ほうがん稗田ひえだの集落があり、標高三〇〇メートルの南部山地の高位谷地に久木原しやぎわらの集落がある。西は美作国英田あいだ土居どい(現岡山県作東町)。慶長国絵図に大畠村とみえる。江戸時代の領主の変遷は上月村に同じ。正保郷帳では田方二〇八石余・畠方一六三石余。元禄郷帳では高三六四石余。元禄(一六八八―一七〇四)頃より紙漉が行われたと伝え、嘉永元年(一八四八)には前年の一二月から当年四月の間に五七戸で紙一千一八七束を漉き、銀一二貫匁を得、口銭三六六匁を上納している(「紙漉問屋口銭取調差上帳」大谷家文書)


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]小倉北区大畠一―三丁目・神岳かんたけ二丁目・山門町さんもんちよう寿山町じゆざんちよう

熊本くまもと村の北、足立あだち山西麓に位置する。中津街道が通る。鎌倉期に大伽藍を構えた大城だいじよう寺があったと伝え、大畠とともに大城寺だいじようじが地名となっている。大城寺村は近世には独立した村として扱われず、大畠村内となった。元禄国絵図に大畠村とみえ、高八二石余。郷村高帳では高一一四石余、うち新田高四石余。


大畠村
おばたけむら

[現在地名]倉敷市大畠・大畠一―二丁目

鷲羽わしゆう山の東に位置し、東・南は瀬戸内海に面する。下津井しもつい四ヵ浦の一つ。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳には「下津井之内」とあり、田畠合せて高八九石余・加子米六石八斗余とある。享保六年(一七二一)の田畠六町一反余、家数一四二・人数一千一〇〇人(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高八〇石余、直高八四石余で池田和泉の給地、田一反余・畑七町四反余、井戸七、家数三六九・人数一千七一一(男九三四)・寺一軒(大宝寺)、牛三、船二二七、酒屋二軒、舟大工二。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]東広島市高屋たかや町大畠

入野にゆうの川上流北岸に位置し、北は低丘陵で稲木いなき村・杵原きねはら村、西は桧山ひやま村に接する。耕地は入野川と村東端でこれに合流する小支流(「芸藩通志」は風上川とする)沿いにある。平賀氏系譜(平賀家文書)は平賀頼宗(文正元年没)の次男宗仲を大畠氏の祖としており、室町時代に平賀氏一族が当地に居を構えたことをうかがわせる。しかし、大畠氏の名は他の平賀氏関係史料にはみえず、村域北西部丘陵上に鎮座する時成ときなり八幡神社も木村兵庫時成なる者が勧請、文明二年(一四七〇)桧山淡路が再建したと伝える。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]作木村大畠

森山東もりやまひがし村の北東、ごうの川の支流砂井谷すないだに川中流域東方に村が広がる。北から東は横谷よこたに(現布野村)。中世には南の光守みつもり西野にしの両村を併せて山中やまなか村と称し、享禄四年(一五三一)一一月二三日付の尼子経久が出雲国飯石いいし郡の赤穴光清に宛てた書状(「閥閲録」所収中川与右衛門家文書)に「山中」の地名がみえる。当時この地は赤穴氏の支配下にあったらしい。

分村の時期は不明であるが、元和五年(一六一九)の備後国知行帳には「大畑村」として高一四四・二七石を記す。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]佐用町大畠

豊福とよふく村の北、江川えかわ川上流のやや開けた谷間に立地する。川沿いに大畠・王子おうじの二集落があり、両側の山地の標高は三五〇メートル台である。因幡道が北の中山なかやま村に抜ける。慶長国絵図に大畑村とみえる。江戸期の領主の変遷は平谷ひらだに村に同じ。正保郷帳では田方二三四石余・畠方六六石余、旱損所、芝山、小松はへ有と注記される。元禄郷帳には豊福の頭注があり高二九〇石余。天保郷帳でも豊福の頭注付きで高三〇七石余。


大畠村
おおはたむら

[現在地名]御前山村野口のぐち

那珂川の左岸に位置し、東北に山地があり、東は野口・門井かどいの二村。

「水府志料」の「大畑村」の項によると、古くは野口村と一村をなしていたが、のち分村した。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には「大畑村」と異記され、寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)に「大畠村」とみえる。天保一三年(一八四二)に野口村に合併された。


大畠村
おばたけむら

[現在地名]當麻町大字大畑おばたけ

今市いまいち村東南に所在。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「ヲハタケ サコノ二郎」がみえる。慶長郷帳には脱洩するが、元和期(一六一五―二四)の村高四二八・〇一三石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)。元和五年郡山藩(松平忠明)領、のち同藩の二割半無地高増政策で村高五三五・一四一石、廃藩置県に至る。

享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)では反別二八町三反七歩半、家数四六(本百姓三二、水呑一四)、人数一九〇(男八一、女一〇七、僧二)、中買商人二、牛五、馬二、除地は禅宗正福しようふく寺、浄土真宗道場と氏神春日大明神、弁才天からなっていた。


大畠村
おおばたけむら

[現在地名]津幡町大畠

籠月こもつき村の東、笠野かさの川に注ぐ大畠川右岸山腹に位置。正保郷帳では高五二石余、田方一町一反余・畑方二町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高六〇石、免五ツ三歩、小物成は山役三四匁・草野役一二匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数三(高免付給人帳)。天明八年(一七八八)山崩れによる変地御償米代として一ツ引免、享和二年(一八〇二)より三ヵ年七歩引免(「河北郡引免根帳」林文書)


大畠村
おばたけむら

[現在地名]加賀市美岬町みさきまち

小塩辻おしおつじ村の北にある。正保郷帳によると高一九二石余、田方三町七反余・畑方一〇町六反余、物成高六九石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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