山崎宿(読み)やまさきしゆく

日本歴史地名大系 「山崎宿」の解説

山崎宿
やまさきしゆく

[現在地名]島本町山崎・山崎一―三丁目、京都府乙訓郡大山崎町大山崎

山崎に置かれた山崎通の宿駅。山崎通は古代の山陽道のルートにほぼ合致し、西国街道ともよぶが、江戸幕府道中奉行の公称は山崎通であった。その道中奉行作成の山崎通宿村大概帳は当宿について「八幡領山城国乙訓郡山崎宿」と山城国所属のように記すが、同書の別の所の説明には「円明寺村境より東(大)寺村境迄、宿往還長拾九町三拾間」とあり、島上しまかみ東大寺とうだいじ村境までを含めていっているので、その間にある当地、島上郡山崎をも含んだ。江戸へ一二九里余、伏見ふしみ宿(現京都市伏見区)へ二里一四町、芥川あくたがわ宿(現高槻市)へ二里。宿高はなし(同書)

山崎通は京都東寺とうじ(現京都市南区)から西行して桂川を渡り、向日むこう(現京都府向日市)円明寺えんみようじ(現大山崎町)を経て山崎に入り、芥川宿、郡山こおりやま宿(現茨木市)瀬川せがわ宿(現箕面市)を経て西宮にしのみや宿(現兵庫県西宮市)に至った。この道は豊臣秀吉朝鮮出兵の軍隊が通ったことにちなんで一名から街道ともよばれた。また、東海道追分おいわけ(現大津市)から伏見宿へ出て、淀の納所よどののうそ(現伏見区)を経て桂川を渡り、下植野しもうえの(現大山崎町)から山崎の手前で山崎通と結ばれる道があり、中国地方の大名が参勤交代に多く利用した。この両道の集まる山崎は交通の要衝であるのには変わりがないが、山崎宿の位置は京都あるいは本宿である伏見宿からの行程からみて、次の本宿の芥川宿までの中間にあたり、本宿間に置かれた間の宿(脇宿)であった。宿駅として整えられたのはいつかつまびらかでないが、慶長一一年(一六〇六)一二月一二日の片桐且元判物(奥田家文書)に「一、京伏見より上下は山崎にて荷物付かへ申すべく候、但ひろせ村は山崎へ一所ニ可相加事」、また「一、従山崎郡山まて上下可有之、宮田と郡山ハ一所に相加り、小浜まて上下可致之事」とあり、宿役に伴う問屋制度がすでにあったことが知られる。


山崎宿
やまざきしゆく

[現在地名]野田市山崎

山崎村に置かれた日光東往還の継立場。同往還は元和三年(一六一七)に始まった将軍の日光社参の際に諸大名が利用する道で、将軍一行による社参時以外の通行はさほどではなかったと思われる。このため常人馬は置かれず、定助郷の制度もなかった。一方、社参時には大通行となり、安永五年(一七七六)徳川家治の日光社参の際には当宿助郷村は印旛いんば郡二一村・三千五〇四石、葛飾かつしか郡一八村・七千四三〇石に及んでおり、このとき街道筋を利用した大名は一〇家であった(松本家文書など)。文政一〇年(一八二七)駄賃は当宿から道法三里二七町の小金こがね宿(現松戸市)まで人足七五文・本馬一五四文・軽尻一〇一文、同じく二里一町の中里なかさと宿までは人足四〇文・軽尻六〇文であった(「駄賃覚」岩井市史料集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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