山崎延吉(読み)やまざきのぶきち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山崎延吉」の意味・わかりやすい解説

山崎延吉
やまざきのぶきち
(1873―1954)

明治から昭和期の農本(のうほん)主義者。別訓は「のぶよし」。号は我農生(がのうせい)。石川金沢生まれ。第四高等中学校を経て、東京帝国大学農科大学卒業。福島県や大阪府の農学校の主席教諭を務めたのち、1901年(明治34)、愛知県碧海(へきかい)郡安城(あんじょう)村(現、安城市)の愛知県立農林学校校長。同時に愛知県農事試験場長等を兼任農業・農村社会の衰退に危機感をもち、日露戦争後には「農村自治」としてその改善策を『農村自治の研究』(1908)で発表した。1920年(大正9)、愛知県の公職を辞して、帝国農会主席幹事。都市計画に対応する「農村計画」を構想し、全国で「興村行脚(こうそんあんぎゃ)」の名のもとに講演。1928年(昭和3)衆議院議員。昭和期になると農民が国家で果たす役割を説いた「農民道(のうみんどう)」を提唱。第二次世界大戦後は、愛知用水の実現に尽力した。

[岡田洋司]

『『山崎延吉全集』全7巻(1935~1936・山崎延吉全集刊行会)』『安達生恒著『山崎延吉 農本思想を問い直す』(1992・リブロポート)』『岡田洋司著『農本主義者山崎延吉 "皇国"と地域振興』(2010・未知谷)』


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改訂新版 世界大百科事典 「山崎延吉」の意味・わかりやすい解説

山崎延吉 (やまざきのぶよし)
生没年:1873-1954(明治6-昭和29)

農民指導者で農本主義者。旧金沢藩士の子として石川県に生まれ,1897年東大農科卒。農学校教諭などを経て1901年から愛知県に奉職,県立農林学校長と農事試験場長・農事講習所長を兼ねた。10年にヨーロッパに出張して協同組合・地方改良事業を調査,13年ころから全国を行脚して農村自治と農民道を提唱した。20年に退職して帝国農会の幹事となり,23年からは国民高等学校運動をおこし,私塾である神風義塾(1929開設)や安城女子専門学校長を通じて独特の農民教育を実施した。〈日本のデンマーク〉といわれた愛知県碧海郡の集約的な零細農耕を背景に,農本主義による農業振興と自力更生力説。28年の第1回普通選挙で衆議院議員となり,また46年には貴族院議員勅選主著は《農村自治の研究》(1908),《農民教育論》(1914)。《山崎延吉全集》全7巻(1934-35)がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山崎延吉」の意味・わかりやすい解説

山崎延吉
やまざきのぶよし

[生]1873.6.26. 石川,金沢
[没]1954.7.19.
明治・大正・昭和期の農業,農政指導者。1897年東京帝国大学卒業。蚕業学校や農学校の教諭を務めたのち,1901年に愛知県立農林学校の初代校長となり,愛知県を中心に農業や農政の指導的役割を果たす。帝国農会特別議員など多くの公職を兼務したが,昭和に入ると日本農村文化協会理事,日本青年館・修養団評議員,神風義塾の開設など,皇道主義的な農本主義に基づく教育活動に専念した。1928年衆議院議員。第2次世界大戦中は大政翼賛会愛知支部顧問を務め,1946年貴族院議員に勅選された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山崎延吉」の解説

山崎延吉 やまざき-のぶよし

1873-1954 明治-昭和時代の農業教育者,農政家。
明治6年6月26日生まれ。34年愛知県立農林学校初代校長。農本主義をとなえ,産業組合と農事講習会の普及につとめた。昭和3年衆議院議員。4年神風義塾をひらき独自の農民教育を実施。5年安城女専を創立。21年貴族院議員。昭和29年7月19日死去。81歳。石川県出身。東京帝大卒。号は我農生。著作に「農村自治の研究」など。

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