1900年(明治33)に成立した産業組合法に基づく協同組合組織。現在の農業協同組合(農協)や生活協同組合(生協)などの前身である。
[武内哲夫]
わが国の農村における協同組織の端緒としては、中世以降の民衆の相互救済慣行であった頼母子講(たのもしこう)や、ゆい講を母体に、幕藩体制期に二宮尊徳(にのみやそんとく)の独自の理念を基に組織された報徳社や大原幽学(ゆうがく)による先祖株組合が知られている。とくに前者の活動は、当時は地域的な限界を脱しなかったが、明治時代以降、農村農家の更生の指導理念として広く農村に浸透した。しかしこれら幕藩体制下の前史とつながりをもつことなく近代日本における協同組合は、明治10年代に商品経済の進展に対応する試みとして出現した。
その一つは、イギリスのロッチデール公正先駆者組合についての知見に刺激を受けた官界、財界、言論界の有志によって設立されたいくつかの消費組合であったが、数年を経ずしてことごとく解散してしまった。もう一つは、農村において当時の貿易商品であった生糸や茶の生産販売条件の有利性の追求、あるいは廉価な生産資材の共同購入を目的にした農民の協同組織であり、これらの多くはその後も着実に発展していくことになった。
このようにわが国の協同組織は、幕藩体制期から明治初期にかけての前史をもっていたが、全国的な普及をみせるのは、富国強兵、殖産興業を旗印とした明治政府による制度化を通してであった。それは次のような状況認識を背景にしていた。すなわち経済の近代化の進展によって、人口の大部分を占める農民や中小生産者が、高利貸資本の収奪によって土地を捨て恒産を失って窮乏化することは、社会不安をもたらし、未熟な段階にあった日本資本主義の基礎を揺るがせかねないと考えられた。こうした事態に対応するため、当時、渡欧によってヨーロッパの協同組合に関する知見を得ていた内務官僚品川弥二郎と平田東助の両者は、ドイツのシュルツェ・デーリッチュ系の信用組合に範をとった信用組合の設立を意図し、信用組合法案を策定し1891年(明治24)第二帝国議会へ上程したのであった。同法案は議会の解散によって審議未了のまま日の目をみることがなかったが、その意図は産業組合(産組)の設立に引き継がれていった。
[武内哲夫]
日本資本主義は日清(にっしん)戦争(1894~95)を経て産業革命の段階を迎えた。この間多様な勧業政策が行われたが、農民や中小生産者は以前にも増して深く商品経済に巻き込まれ、存立の基礎を揺るがされることとなった。また産業資本の展開につれて、労働運動の発生や社会主義思想の伝播(でんぱ)など社会問題が深刻化した。こうした状況の下で信用組合法案にかわって、産業組合法(産組法)の策定が進められ1897年(明治30)に議会へ上程された。しかし、その内容をめぐってさまざまな異論が表明されたため、若干の修正を行い第二次産業組合法案が1900年2月に議会にふたたび上程された。これは無事に両院を通過し同年3月公布された。ちなみにこの年に、わが国最初の社会運動弾圧法である治安警察法が成立している。
産組法では組合員資格についての規定はなく、加入の意志をもつ者は職業のいかんを問わず組合員となることができた。また信用組合法案をめぐる論議のなかにあった経済および生産の事業をも含むべきであるという主張を生かし、信用組合に加えて販売組合、購買組合、生産組合(後日、利用組合と改称)の4種の事業を、兼営することを認めた(1906年の第一次法改正まで信用組合は、他事業を兼営することが禁止されていた)。また責任形態としては、当初無限責任、保証責任、有限責任の三つを規定した。産組法は協同組合という観点からは、加入・脱退の自由(ただし無限責任組合の場合、全組合員の同意を必要とした)、議決権の平等、総会における役員選出権と解任権の行使、総会招集権、出資金上限の設定および持分譲渡の制限、剰余金の配分(施行規則で規定)等を規定していた。しかし非営利原則を明記していないこと、生活資金の貸付(1917年の第三次法改正で認可)や購買組合の加工事業(同)を認めていないこと、連合組織に関する規定(1909年の第二次法改正で認可)がないこと、行政による設立認可権の制限を規定していないなどの欠陥をもっていた。しかし産組法は、第二次世界大戦後の協同組合法制が種別の縦割り法制となっているのに対し、統一的法制としての性格を有していたことに特徴があった。
[武内哲夫]
法の成立後、行政や農会の努力にもかかわらず産組の設立は遅々として進まなかった。また設立された産組も地主、自作、自小作層などの比較的恵まれた階層を中心とする組織にとどまっていた。しかしその後の設立促進のための法改正や啓蒙(けいもう)活動などによって、組織数は1905年(明治38)からの5年間で1671組合から7308組合に、15年(大正4)には1万1506組合にまで増加し、市町村への広範な設置をみた。しかしその時点で、554万農家のうち組合員農業者の割合は19.3%にとどまっており、農家の半数を組織するに至ったのは大正末年の「産組振興刷新運動」の展開を通してであった。この振興刷新運動に前後して、「共存同栄」という理念とそれに基づく「産業組合主義の徹底」というスローガンが、運動の目標として掲げられた。
産組が農家を7割を超えて組織するに至るのは、昭和恐慌期の農村対策であった「農山漁村経済更生運動」に呼応して、二度にわたって実施された「産組拡充計画」を通してであった。1933年(昭和8)からの第一次産組拡充5か年計画では、未設置町村の解消、全戸加入、4種兼営の実施、組合全利用などを主要課題とし、その結果、産組は組織的にも事業的にも大きく発展した。しかしこの事業の伸びは米穀流通や肥料配給など、国の政策の産組への集中に大きく支えられたものであった。一方こうした産組の発展に危機感を募らせた中小商業者は、33年に全日本商権擁護連盟を組織し反産組運動を展開し、産組との間で激しい攻防が繰り広げられた。
産組の連合組織は、第二次法改正で地方連合会および中央会の設立が認められ、1909年に全国を区域とする産組中央会が設置され、その支会が都府県ごとに置かれた。また府県域、郡域の地方連合会の普及に伴って23年に全国購買組合連合会が、27年に大日本生糸販売購買組合連合会が、そして31年には全国米穀販売組合連合会が設立されている。また23年に産業組合中央金庫法が公布され、同年、今日の農林中央金庫の前身となる産組中央金庫が設立された。
以上に記した農村産組とは別に、第一次世界大戦中の米騒動に象徴される物価騰貴やその後の恐慌を背景に、都市部に労働組合や市民層によって産組法に準拠した消費組合が設立されたが、労働運動や社会運動への弾圧やその後の物資統制からの除外によって、これらの多くは、まもなく解散ないしは事実上の事業停止に至った。また産組法第三次改正(1917年)によって、他事業の兼営を禁止したうえで信用事業の内容を拡大した市街地信用組合が認められ、今日の信用組合、信用金庫の前身となった。
[武内哲夫]
わが国は1931年(昭和6)の満州事変、37年の日中戦争そして41年には第二次世界大戦へと突入し、それに伴って戦時体制の確立に向けての各種統制立法が進んだ。その一環として43年に農業団体法が制定され、産組は農会、畜産組合、養蚕業組合、茶業組合と統合されて農業会となった。農業会は行政単位ごとに置かれ、関係者は強制加入させられ、役員選出への行政の関与や統制への服従義務などが規定され、協同組合とは異質の国策代行機関であった。45年の第二次世界大戦終結後、占領政策によって農業会は解散を命ぜられ、農地改革によって生まれた自作農による民主的な農業協同組合の設立が進められた。しかし産組法自体は、48年7月に公布された消費生活協同組合法の付則において廃止が規定されるまで存続していた。
[武内哲夫]
『産業組合史編纂会編『産業組合発達史』全5巻(1966・産業組合史刊行会)』▽『武内哲夫・生田靖著『協同組合の理論と歴史』(1976・ミネルヴァ書房)』▽『川野重任他編『新版 協同組合事典』(1986・家の光協会)』▽『全中協同図書資料センター監修『産業組合中央会史』(1988・全中)』
1900年制定の産業組合法に基づいて組織された協同組合で,組合員の産業・経済の発達を図ることを目的とした。産業部門の成長が本格化しつつあった明治中期において,経済政策上の大きな課題は,食糧自給の確保や輸出伸張による外貨の獲得であり,また,家族自営業や小資本経営の維持・向上をとおして地方行政の安定を図ることであった。1891年ドイツの都市型信用組合を範として,品川弥二郎,平田東助の案出した,信用組合法案が内務省から提出されたが審議未了に終わった。その後,ドイツの農村型各種事業兼営協同組合を範として農商務省から提出され,成立したのが産業組合法である。この制度はおもに農村の中堅農家を組合員として,信用・販売・購買・利用という各種事業を営む協同組合として構想されていた。しかし,農民の多くがまだ自立できなかった明治末期には,全国の過半数の町村に産業組合が設立された段階においても,農民の1割程度が組合に加入しているにすぎなかったし,事業も信用事業が中心で,しかも組合への貯金よりも組合からの貸出金のほうが多いという状態であった。第1次大戦の影響で農村経済が潤った時期に,組合員は100万人から200万人へと倍増したが,大戦後の1920年代,30年代には,不況・恐慌の下で農業経営が困難に直面し,地主と小作人との争いが激化したので,政府は産業組合の育成・普及を農業政策の重点とした。1923年の産業組合中央金庫と全国購買組合連合会の設立,産業組合への低利資金の多額融通などはこの一環である。また,1933年から官民総がかりで展開された産業組合拡充計画の効果は大きかった。それは農業・農村の統制・誘導を役場,小学校,農会,産業組合の4団体によって行わせるものであったから,農村在住者は直接に組合員となるか,農家小組合などを介して間接的に産業組合事業を利用するかの違いはありながらも,産業組合事業に組み込まれざるをえなくされた。
この時期に産業組合の性格は大きく変化した。それは地主・上層農民など農村内の一部の者だけが参加していた組合を,農民全階層を加入させるに至ったこと,それに対応して,それまで信用事業中心であった組合が,販売・購買事業をも大きく発展させて,四種事業兼営組合となったこと,である。こうして,従来,任意加入の協同組合である産業組合は,事実上全員加入の半行政団体の性格を強めていった。この傾向は日中戦争以降の戦時統制期にはいっそう明確になった。43年の農業団体法は,農会系統と産業組合系統を統合して,各町村に単一の強制加入組織,農業会を組織させた。これが第2次大戦後,民主化を経て今日の農業協同組合につながる。なお,産業組合の発達によって排除された地方都市の商人層を中心に,産業組合の発達と政策的支援に反対する運動(反産運動)が,昭和初年にかなり激しく展開されている。
執筆者:加瀬 和俊
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小農民の協同組合。小農民が自治村落を単位として形成し,主として流通・信用の面で商人資本・金貸資本を排除して,商品経済にみずからを適応させようとする組織。1900年(明治33)産業組合法成立以前から,報徳社などの勤倹貯蓄組合や生糸や茶の販売組合や肥料の共同購入組合が351組合も自生的に形成されていた。初期には在村地主の寄与が大きく,多くはまず信用組合として組織された。06年の第1次法改正で信用事業と他事業との兼営が認められ,兼営組合が増加した。10年の組合数は7308。20年代には資金面から産業組合の育成がはかられ,33年(昭和8)からの産業組合拡充計画のなかで販売・購買事業も強化されるとともに,全員加入の半行政団体の性格を強めた。43年に農業会に統合され,第2次大戦後に農業協同組合へ編成替えされた。
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…その前身である全販連は1931年に全国米穀販売購買組合連合会として,全購連は1923年に全国購買組合連合会として,それぞれ設立された。いずれも当時の農村にあった産業組合(今日の農協の前身)を基盤にした全国連合組織であり,全販連は米穀の販売を,全購連は肥料の購買を主たる事業としていた。両者は第2次大戦中に一時統合されたが,敗戦後の農村民主化のなかで47年農業協同組合法の制定があり,新しい農協が発足したことに対応して,48年に同法にもとづき全販連,全購連として再発足した。…
…明治政府はこうした農民の窮乏化に対する政府の対策として,ドイツで発展していた農村信用組合を参考にして,日本に同様な組合を設立普及させることを意図した。この政府の意図が1900年に産業組合法を成立させることになった。産業組合は農・工業者一般が信用力をつけ,販売や購買の面での協同活動を進めるためのものであったが,その大半は政府官僚の指導のもとに農村の協同組合として設立された。…
…こうした特質のために,農業金融には特殊の金融機関が設けられている。農業金融機関は1897年(明治30)設立の日本勧業銀行,1898‐1900年の各府県農工銀行,1900年の北海道拓殖銀行に始まるが,その後零細な資金の必要性を満たすため,1900年の産業組合法に基づいて市町村産業組合が設立された。23年には産業組合中央金庫が設立され,郡ないし県の信用組合連合会を含めて,組合系統金融組織が成立した。…
…〈農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神ヲ活用シ其ノ経済生活ノ上ニ之ヲ徹底セシメ以テ農山漁村ニ於ケル産業及経済ノ計画的組織的刷新ヲ企図セザルベカラズ〉の訓令に見られるように,更生運動の特徴は,部落の〈隣保共助ノ精神〉を振興して農村経済の〈計画的・組織的刷新〉を図るところにあった。その中心には産業組合がすえられ,部落の下部組織としては農事実行組合が組織された。また〈隣保共助〉の実をあげるために精神更生が強調された。…
※「産業組合」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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