山崎郷(読み)やまさきごう

日本歴史地名大系 「山崎郷」の解説

山崎郷
やまさきごう

中世の小山田おやまだ庄内の郷村。今井谷戸いまいやとから七国ななくに山に登る鎌倉街道は、元弘三年(一三三三)五月新田義貞の鎌倉攻略の軍勢通過の際、軍馬に水を与えたという伝承がある鎌倉井戸を経て、山崎と野蔦のづた(野津田)の境を下り、鶴見つるみ川を馬入れ付近(鎧堰と丸山橋の間)で渡り、華厳けごん院脇から小野路おのじへと通じる。武蔵七党のうち小野氏を祖とすると伝える横山党の横山孝兼(隆兼・横山野新大夫)嫡男時重は粟飯原(相原)と称したとされ、弟の孝遠(隆遠)が藍原二郎大夫と号した。この世代の頃、さかい川流域の相原あいはらに進出し、孝遠の子に野部三郎義兼(矢部)、孫に山崎野太郎兼光(野太)、義兼の弟時綱の子に鳴瀬四郎太郎某(成瀬)があり、多摩郡横山よこやま(現八王子市など)から相原―矢部やべ―山崎―成瀬なるせへと勢力を扶植している。横山氏は時重の嫡子時広、嫡孫時兼ともに鎌倉幕府成立期から史料に散見する有力御家人であった。現相模原市上矢部にある乾元二年(一三〇三)八月銘の板碑が建保元年(一二一三)和田合戦で戦死した野部三郎義兼の追善供養のため遺族旧臣が建立したという伝承があり(相模原市史)、義兼も和田氏側に加担していたとすれば、野太郎という名乗りからして嫡男の山崎兼光も参戦していたか、あるいは縁座し、一族は一時的にせよ没落したと思われる。


山崎郷
やまさきごう

現宮之城町の南西半を占める外城。川内せんだい川とその支流久富木くぶき川・泊野とまりの川流域に広がる。北端紫尾しび(上宮嶽)がそびえる。薩摩国伊佐郡に属する鹿児島藩直轄郷で、中之郷に位置づけられ(列朝制度)鹿児島城下からの距離は一〇里半(「薩藩政要録」など)。天正八年(一五八〇)の肥後合戦陣立日記(旧記雑録)には、島津義久の陣に従う諸地頭衆のうちに山崎の野村兵部少輔(利綱)の名がみえる。寛永一三年(一六三六)の堺目人数・武具注文(同書)には宮之城郷鶴田つるだ郷とともに山崎もみえる。名勝志再撰方しらべ帳留(山崎郷御仮屋文書)によれば、当初はけどう院内山崎村という小村であったが、伊佐郡大村おおむら郷の久富木村と薩摩郡とう郷の二渡ふたわたり村・白男川しらおがわ村・泊野村の計四ヵ村を山崎に添えさせ、五ヵ村で一郷を立てられたとされ、寛永年間および明暦(一六五五―五八)頃山崎に藩内各地から衆中が移住させられたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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