山本利兵衛
やまもとりへえ
(1688―1766)
江戸中期の漆工、蒔絵(まきえ)師の家系の祖。本名武継(たけつぐ)。丹波国桑田郡(京都府)の出身。若く京に出て吉文字(きちもんじ)某につき漆塗りを学ぶ。1714年(正徳4)開業して名をなし、47年(延享4)桃園(ももぞの)天皇即位の漆器を制作した。以後、子孫が代々利兵衛の名を継いで家業に従事した。2代(1743―91)は本名周三(しゅうぞう)。71年(明和8)後桃園(ごももぞの)天皇即位の御用を勤めた。3代(1770―1838)は本名光春(みつはる)、嶺月(れいげつ)と号し、狩野(かのう)派の吉田元陳に入門して山水画をよくし、蒔絵の名手と称された。1817年(文化14)仁孝(にんこう)天皇即位の調度を手がけたのをはじめ、亀甲(きっこう)形の印籠(いんろう)や千鳥形の杯(さかずき)などを制作して好事家(こうずか)に愛用された。4代(?―1870)は本名武光。46年(弘化3)孝明(こうめい)天皇即位時のほか、皇居炎上後の諸調度を調進し、57年(安政4)内裏(だいり)常職に任命され、59年の和宮(かずのみや)降嫁の諸調度も調進した。明治天皇即位の調度は5代(1839―1908)があたった。5代以降は未詳。
[郷家忠臣]
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山本利兵衛【やまもとりへえ】
江戸時代の漆工。初世〔1688-1766〕は本名武次。丹波の人で,宝永のころ京都に上り,吉文字屋某に漆工芸を学んだ。1746年桃園天皇即位に際し漆器を製作。3世〔1770-1838〕は本名光春。父に蒔絵(まきえ)を,吉野元陳に狩野派の絵を学んだ。1817年仁孝天皇即位の調度に蒔絵を施し,また宮中の屏風(びょうぶ)に山水を描いたこともある。
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山本利兵衛(3代)
没年:天保9(1838)
生年:明和7(1770)
江戸後期の蒔絵師。名は光春,嶺月と号した。蒔絵師山本利兵衛家の3代目で,2代周三の子。初代利兵衛武継は,丹波国(京都府)桑田郡に生まれた。宝永年間(1704~11)のころ京に出,吉文字屋某の弟子となって漆芸の技を極めた。正徳4(1714)年に独立開業し,「室町通今出川下ル」に住したという。初代はじめ,歴代の利兵衛は天皇即位の調度制作を承り,3代光春も,文化14(1817)年に仁孝天皇の即位調度の蒔絵を命ぜられたと伝える。蒔絵を2代周三に学んで名手と称され,また吉田元陳に狩野派の画技を学ぶなど,多芸の人として知られる。
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山本利兵衛(3代) やまもと-りへえ
1770-1838 江戸時代後期の蒔絵(まきえ)師。
明和7年生まれ。2代山本利兵衛の子。仁孝天皇即位の際,調度に蒔絵をほどこし,亀甲形の印籠(いんろう)や千鳥形の杯などの作品をのこす。狩野(かのう)派の吉田元陳にまなび,宮中の屏風に山水をえがいた。天保(てんぽう)9年死去。69歳。名は光春。号は嶺月。
山本利兵衛(初代) やまもと-りへえ
1688-1766 江戸時代中期の蒔絵(まきえ)師。
元禄(げんろく)元年生まれ。京都の吉文字(きちもんじ)屋に弟子入りし,のち独立開業。桃園天皇の即位にあたり漆器調度をつくった。以後,代々利兵衛を名のった。明和3年9月27日死去。79歳。丹波桑田郡(京都府)出身。名は武継。
山本利兵衛(5代) やまもと-りへえ
1839-1908 幕末-明治時代の蒔絵(まきえ)師。
天保(てんぽう)10年3月生まれ。4代山本利兵衛の子。明治天皇即位にあたり調度に蒔絵をほどこす。また漆器の改良工夫につとめ,京都漆器業界の発展につくした。明治41年4月9日死去。70歳。名は光利。号は心月。
山本利兵衛(2代) やまもと-りへえ
1743-1791 江戸時代中期の蒔絵(まきえ)師。
寛保(かんぽう)3年生まれ。初代山本利兵衛の子。京都の人。家業を父にならい,後桃園天皇即位の際,調度に蒔絵をほどこした。寛政3年4月20日死去。49歳。名は周三。
山本利兵衛(4代) やまもと-りへえ
?-1870 江戸時代後期の蒔絵(まきえ)師。
3代山本利兵衛の子。孝明天皇即位の際,調度を制作し,安政4年内裏常職となる。和宮降嫁の際の調度にも蒔絵をほどこした。明治3年6月8日死去。名は武光。
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