山登万和(読み)やまとまんわ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山登万和」の意味・わかりやすい解説

山登万和
やまとまんわ

[生]嘉永6 (1853).11.24. 江戸
[没]1903.5.23. 東京
山田流箏曲家,作曲家。本姓大須賀。都名(いちな)は万和一。幼時失明し,2世山勢検校に師事する。明治2(1869)年検校となる。2世山登検校没後,3世山登継承前の頃山登を名のるが,山登派家元の代数には数えられない。山登派の 3世家元山登松齢を市谷合羽坂に住んでいたことから「合羽坂の山登」と呼んだのに対し,本郷天神町に住んでいたので「天神町の山登」と呼ばれた。松齢とともに音楽取調掛に出勤して 1世山勢松韻の仕事を手伝っている。御歌所(→和歌所)寄人であった中村秋香と協力して,箏曲の江戸趣味的な歌詞を改めたり(替歌),新曲の創作に努めた。流祖山田検校の墓が荒廃していたので修復し,新曲ができるとその墓前に奉げてから公にしたという。1902年自作を中心として,山田検校の 3作品に対する中村秋香の替歌を含む『山登作曲箏歌集』を刊行した。作品に『四季の詠』(→四季の眺),『菊水』『松上の鶴』『近江八景』『須磨の嵐』などがある。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「山登万和」の解説

山登 万和
ヤマト マンワ


職業
箏曲家(山田流)

本名
大須賀

別名
都名=万和一

生年月日
嘉永6年 11月14日

出生地
江戸(東京都)

経歴
3歳で失明。2代目山勢検校慶風一に入門、次いで初代山登松和一に箏曲を学んだ。明治2年17歳で検校に進み、山登万和と称した。若手ゆえ、さらに励み、美声で世に出た。皇后陛下に召されて秘曲を演奏、賞をもらった。山田流の山登家の3代目家元とは数えず、本郷天神町に住んでいたので“天神町の山登”といわれた。また、琴曲歌調の改善に努め、「近江八景」「須磨の嵐」「菊水」など多くの新曲を作った。

没年月日
明治36年 5月23日 (1903年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山登万和」の解説

山登万和 やまと-まんわ

1853-1903 明治時代の箏曲(そうきょく)家。
嘉永(かえい)6年11月24日生まれ。山田流。2代山勢検校(やませけんぎょう)にまなび,明治2年山登検校。江戸の本郷天神町にすみ,「天神町の山登」とよばれ,山登家3代家元の松齢と区別された。明治36年5月23日死去。51歳。本姓は大須賀。作品に「須磨の嵐」「菊水」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山登万和の言及

【四季の詠(四季の眺)】より

…(3)四季の詠 山田流箏曲の曲名。山登万和(まんわ)(1853‐1903)作曲の初学者向きの曲。(2)と同じく四季の風物をうたったもの。…

【山勢派】より

…箏曲家としては,《かざしの雪》の作曲者とも擬される。門下には,3世山勢のほか,山登万和(1853‐1903)や,松翁流胡弓家でもあった初世町田杉勢(1843‐1929)などがある。 3世山勢(1845‐1908∥弘化2‐明治41)は,下谷で幕府徒士頭吉田義方(慶助)の次男として生まれた。…

【山登派】より

…1879年3世山登を襲名,山登松齢と名のる。山勢派の山登万和(1853‐1903∥嘉永6‐明治36)も,山登または大和を称したので,それぞれの住所により,松齢を合羽坂の山登,万和を天神町の山登といって区別された。作品に《田植の幸》《臼の声》《(新玉の)四季の遊》などがある。…

※「山登万和」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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