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徳川家慶 とくがわ いえよし

美術人名辞典の解説

徳川家慶

徳川幕府十二代将軍。十一代将軍家斉の次男。幼名は敏次郎、院号は慎徳院。家斉の歿後家斉が老中に任じた水野忠邦を重用し、天保の改革を断行。忠邦の後は阿部正弘を起用し、対外問題をはじめとする難局に対処した。嘉永6年(1853)歿、41才。

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デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐いえよし〔トクがはいへよし〕【徳川家慶】

[1793~1853]江戸幕府第12代将軍。在職1837~1853。家斉の二男。老中水野忠邦天保の改革を断行させたが、急激にすぎて失敗。のち、外国勢力の圧迫による難局にあたり、阿部正弘を起用。

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百科事典マイペディアの解説

徳川家慶【とくがわいえよし】

江戸幕府12代将軍(在位1837年―1853年)。11代家斉(いえなり)の子。幼名敏治郎。諡号(しごう)慎徳院。将軍就任当初は家斉が大御所として実権を握ったが,その死後,家斉側近を排し,水野忠邦を重用して天保改革を推進。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川家慶 とくがわ-いえよし

1793-1853 江戸幕府12代将軍。在職1837-53。
寛政5年5月14日生まれ。徳川家斉(いえなり)の次男。母はお楽の方(香琳院)。天保(てんぽう)8年将軍となるが,父家斉の大御所政治がつづく。12年家斉の死後,水野忠邦(ただくに)を老中首座とし天保の改革を断行。開国をせまるペリーの来航直後の嘉永(かえい)6年6月22日死去(発喪は7月22日)。61歳。幼名は敏次郎。法号は慎徳院。

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川家慶

没年:嘉永6.6.22(1853.7.27)
生年:寛政5.5.14(1793.6.22)
江戸幕府12代将軍。徳川家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏,香琳院)。幼名は敏次郎。妻は有栖川宮織仁親王の娘喬子。院号は慎徳院。天保8(1837)年に将軍職についたが,大御所となった家斉とその側近に幕政を牛耳られ,実権を握れなかった。家斉の死後,12年から老中水野忠邦の手で天保の改革を断行させ,内憂外患の危機打開を図ろうとした。特に在任中に対外的危機が深刻化し,ペリー来日直後の慌ただしいさなかに亡くなった。かなりの大酒飲みで,お椀の蓋や大皿に酒を自ら注いで飲んだといわれる。

(藤田覚)

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江戸・東京人物辞典の解説

徳川家慶

1793〜1853(寛政5〜嘉永6)【十二代将軍】享保・寛政の政治を手本に、幕政建て直しを図る。 十二代将軍(在職1837〜53)。大御所として実権を握った前将軍家斉の没後、弛んだ幕政の引き締めを図った。老中水野忠邦に天保の改革を実施させ、厳しく倹約令と風紀取締りを実施。その後、忠邦は罷免され、阿部正弘が老中に抜擢された。ペリー来航の際、病死。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわいえよし【徳川家慶】

1793‐1853(寛政5‐嘉永6)
江戸幕府12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の次男。母は押田氏の娘。幼名敏治郎。諡(おくりな)は慎徳院。1797年(寛政9)世子(せいし)となり西丸に入り,1837年(天保8)将軍職に就いたが,政治の実権はなお大御所家斉にあった。41年家斉の死後,家斉の側近勢力を排して幕政を親裁し,老中水野忠邦を重用して天保改革をすすめた。忠邦失脚後は阿部正弘を用いて海防問題の難局に当たったが,53年ペリーが浦賀に来航した直後に病没した。

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大辞林 第三版の解説

とくがわいえよし【徳川家慶】

1793~1853) 江戸幕府第一二代将軍(1837~1853)。家斉の二男。幼名敏次郎。はじめ家斉が大御所として実権を握っていたが、その死後水野忠邦を登用して天保の改革を行わせた。1853年ペリー来航直後に病没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川家慶
とくがわいえよし

[生]寛政5(1793).5.14. 江戸
[没]嘉永6(1853).6.22. 江戸
江戸幕府 12代将軍 (在職 1837~53) 。家斉 (→大御所時代 ) の次男。母は押田敏勝の娘。幼名は敏次郎。院号は慎徳院。天保8 (37) 年4月2日将軍宣下。老中水野忠邦を重用して天保の改革を実行。この治世には外国船の出没が頻繁で,政治は内憂外患に見舞われた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川家慶
とくがわいえよし
(1793―1853)

江戸幕府第12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の二男。幼名敏次郎。1837年(天保8)将軍職を継いだが、家斉在世中は家斉の大御所政治に実権を握られた。1841年、家斉の死後、老中水野忠邦(みずのただくに)を首座に任用して幕政の改革を行った(天保(てんぽう)の改革)。しかし、改革は急激にして、また各方面に厳格にすぎたため人心を失い、忠邦は2年余で失脚した。その後、阿部正弘(あべまさひろ)を老中首座に起用し、有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、幕末の雄藩連合運動の素地をつくることとなった。1853年(嘉永6)6月のペリー来航に際しては病床にあり、外交を正弘と水戸藩主徳川斉昭(なりあき)に任せて死去した。法号慎徳院。[井上勝生]

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