改訂新版 世界大百科事典 「山登派」の意味・わかりやすい解説
山登派 (やまとは)
箏曲の流派および芸系。山田流の一派で,山登姓の家元を中心とする派をいう。
初世山登(1782-1863・天明2-文久3)は,江戸で,山田検校の《江の島の曲》の作詞者とも伝えられる高木与兵衛(百泰)の子として生まれる。幼名清吉。失明して山田検校に師事,都名(いちな)を松和一と名のる。1812年(文化9)山登検校となる。山田検校の筆頭弟子として出藍の誉れが高かったが,師の没後,その姓を継がず,終生山登で通した。作品に《春日詣(かすがもうで)》《初若菜》《糸の恋》《西行》などがある。平曲も演奏した。門下には,2世山登のほか,河東節の山彦青波(巴)こと山彦寿喜一検校,初め山田検校門弟であった千代田松恵(慶)一検校,初め生田流の豊高検校の門下で豊泉と名のったが山田流に転じた山泉松律一検校,松翁流胡弓家でもある山沢宗和一検校,女流の佐藤登名美などが出た。千代田は,《竹生島》《石山源氏》《さみだれ》などの作曲者として知られる。また,佐藤の門から鳥居登名美が出て,女流の独立家元となり,以来現在まで鳥居としては4代,登名美としては5世を数える。
2世山登(1815-76・文化12-明治9)は,下谷竹町の加賀屋平三郎の息。都名は松逸一。初世に師事して1867年(慶応3)山茂(繁・滋)検校となる。70年(明治3)以降に初世の姓を継いだが,酒癖のため75年にその名を取り上げられたともいわれる。作品に《松の栄》《祝ひ歌》などの富本節との掛合物がある。
3世山登(1844-89・弘化1-明治22)は,日本橋馬喰町に宮崎太右衛門の次男として生まれる。6歳から千代田検校に師事,都名は松齢一。23歳で勾当(こうとう)となり,伊豆本姓を称す。1879年3世山登を襲名,山登松齢と名のる。山勢派の山登万和(1853-1903・嘉永6-明治36)も,山登または大和を称したので,それぞれの住所により,松齢を合羽坂の山登,万和を天神町の山登といって区別された。作品に《田植の幸》《臼の声》《(新玉の)四季の遊》などがある。一方,万和は《四季の詠》《菊水》《松上の鶴》《近江八景》《須磨の嵐》など,非常に多作家であった。
その後,山登姓を称するものは,一時絶えた。4世山登(1897-1948・明治30-昭和23)は,本名佐野均(ひとし)。初名松秀。兄の千里とともに中能島派の中能島喜久に師事,兄は中能島家を継いで松仙と称し,均は山登家に迎えられ,1928年に4世山登を襲名,山登松齢を称したが,32年山登松和と改めた。没後は,妻愛子(1897-1980)が家元を預かったままとなっていた。
執筆者:平野 健次
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