山神村(読み)やがみむら

日本歴史地名大系 「山神村」の解説

山神村
やがみむら

[現在地名]上野市山神

土橋つちはし村の西。南部は柘植つげ川を挟み、南北に細長く、古代印代いじろ郷の西端にあたる。東出ひがしでに山神古墳がある。熊野那智くまのなち神社と当地方服部一族との関係文書、文明二年(一四七〇)三月四日付の旦那注文(米良文書)に「やかみ町井 康珍(花押)」の記載があり、従来町井氏は木興きこ村の豪族で新田源氏を称するとされてきただけに珍しい。ただし同注文に記す八氏のうち五氏は「服部宮田」などと服部はつとり郷名を付すのに、「やかみ」となっており、古くからの山神の土豪であったかは断定しがたい。

宝永五年(一七〇八)居検地を改め、本高二二三・〇四七石、平高三四八・六三石、うち藤堂彦兵衛の給地一七四石。


山神村
やまのかみむら

[現在地名]藪塚本町山之神やまのかみ

大間々おおまま扇状地の中央に位置し、西は本町ほんまち村、南東は寄合よりあい村、北はやぶ村。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により成立した新田村。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)に「山之神」とみえ、東西に「我妻海道」が走る。元禄一〇年(一六九七)笠懸野新田絵図(同家蔵)には南東に家三軒、吾妻あづま道沿いと同道に南北に交わる道沿いの両側に家三〇軒が描かれている。


山神村
やまかみむら

[現在地名]玉城町山神

国束くづか山塊の北麓で大半は山地である。山上とも記される。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「度会郡城田郷山上村十五条五田里」とみえる。「五鈴遺響」や「神都名勝誌」などは地名は当地の皇大神宮摂社かも神社(二座)にもとづくとしている。鴨神社の南方約四〇〇メートルに同社の旧社地があり、約七メートル四方の平坦地と高さ一・二五メートルの石積みがみられる。


山神村
やまのかみむら

[現在地名]田富町山之神やまのかみ

釜無川の左岸にあり、東は布施ふせ村、南は臼井阿原うすいあわら村、西は釜無川、北は河西かさい(現昭和町)。枝郷として鍛冶新居かじあらいがあり、村内を駿州往還が通る。村の西に信玄堤があり、堤の外を常永じようえい川が南流する。慶長古高帳に山ノ神とあり、高三四石余、幕府領。貞享二年(一六八五)検地帳(県立図書館蔵)では下田一町二反余・下々田四町四反余・田二町余、中畑三反余・下畑六反余・下々畑三町九反余・畑一町六反余、屋敷一町余で、高九〇石余。


山神村
やまのかみむら

[現在地名]山形市蔵王堀田ざおうほつた表蔵王おもてざおう南半郷みなみはんごう

高湯たかゆ村の西、上野うわの村の東に位置し、りゆう山西麓の山腹に立地。山之神とも書く。村名は地内に鎮座する山神社に由来する。江戸初期に高湯村から分村して成立した村で、元禄郷帳(国立史料館蔵)に「古者高湯村之枝郷山之神村」とみえる。領主の変遷は高湯村と同じ。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録・正保郷帳・天保郷帳などに村名がなく、高湯村に含まれている。寛永一六年の定納一紙(佐藤文書)では一村の扱いで、高六八石余、村内反別田二反余・畑四町四反余(うち屋敷地四反余)、ほかに高湯・半郷・上野、金谷かなや(現上山市)に出作地一町九反余があった。


山神村
やまがみむら

[現在地名]蒲郡市相楽さがら

大塚おおつか村の北東。慶長六年(一六〇一)以前は池田輝政領、同年幕府領となり、元禄一一年(一六九八)一色丹後守の知行となり明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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