日本歴史地名大系 「山西村」の解説
山西村
やまにしむら
南に相模湾を望み、西境を
古くは川勾村とともに「梅沢の里」とよばれ(風土記稿)、文明一八年(一四八六)当地を通った聖護院道興は「廻国雑記」に「旅衣春まつ心かはらねは聞もなつかし梅さはの里」と詠んでいる。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)は「東郡梅沢」に宛てられている。寛文五年(一六六五)の検地帳(宮戸文書)に村名がみえる。元禄郷帳に「古者梅沢村山西村」と記される。
近世は初め幕府直轄領、寛永一七年(一六四〇)八八石余が小田原藩領川勾村として分立し、当村は現在の梅沢・
山西村
やまにしむら
松山平野の西平坦部に位置する農村。村の西南方に分離丘陵の
山西村
やまにしむら
山西村
やまにしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報