山西村(読み)やまにしむら

日本歴史地名大系 「山西村」の解説

山西村
やまにしむら

[現在地名]二宮町山西

南に相模湾を望み、西境押切おしきり川、中央を北部山中より湧出した梅沢うめざわ川が流れる。吾妻あづま山を中心に北から東にかけて山が連なり、東は二宮村、西は川勾かわわ村および足柄下あしがらしも小竹おだけ村・小船おぶね村・中村原なかむらはら前川まえがわ村・羽根尾はねお村・沼代ぬましろ(現小田原市)、北は中里なかざと村・一色いつしき村・小竹村に接する。海沿いを東海道が通る。

古くは川勾村とともに「梅沢の里」とよばれ(風土記稿)、文明一八年(一四八六)当地を通った聖護院道興は「廻国雑記」に「旅衣春まつ心かはらねは聞もなつかし梅さはの里」と詠んでいる。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)は「東郡梅沢」に宛てられている。寛文五年(一六六五)検地帳(宮戸文書)に村名がみえる。元禄郷帳に「古者梅沢村山西村」と記される。

近世は初め幕府直轄領、寛永一七年(一六四〇)八八石余が小田原藩領川勾村として分立し、当村は現在の梅沢・釜野かまの越地こいじ茶屋ちややを含む範囲となる。寛文六年旗本板倉領、同一二年幕府直轄領、延享元年(一七四四)上野前橋藩領、寛延二年(一七四九)武蔵川越藩領、文化八年(一八一一)旗本神谷領と幕府直轄領の二給、天保一四年(一八四三)旗本神谷領と小田原藩領の二給。元禄九年(一六九六)三月の村明細帳(県史六)によれば田六町余、畑屋敷八三町一反余、船役納永五貫四五〇文、塩年貢四二八文、浮猟一〇分一。農間渡世として男は木草取、女は麻・木綿織をするとある。同一一年五月の入込田地書出帳(県史六)によれば西方の小竹村・沼代村中村原へ八町五反八畝七歩が入組み飛地となっていた。「風土記稿」によれば元禄年間に整理され、小竹村に一畝一八歩を残すだけとなったという。


山西村
やまにしむら

[現在地名]松山市山西町・明神丘みようじんおか若葉わかば町・清住きよすみ一―二丁目・松江まつえ町・海岸通かいがんどおり大可賀おおかが一―三丁目

松山平野の西平坦部に位置する農村。村の西南方に分離丘陵の弁天べんてん(一二九・四メートル)忽那くつな(四九・一メートル)とがある。東は衣山きぬやま村、南は別府べふ北吉田きたよしだの二村、北は三津みつ町に接し、西は伊予灘に面する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)温泉おんせん郡の項に「山西村 日損所」とある。


山西村
やまにしむら

[現在地名]西区神出町広谷かんでちようひろたに

明石郡北西端に位置し、印南野いなみの台地北東部の雌岡めつこ山西麓にある。南はきた村。江戸時代前期に明石藩の開墾策によって開発された新田村(明石名勝古事談)、元禄郷帳に村名がみえ、高一八石余。


山西村
やまにしむら

[現在地名]天川村大字山西

唐笠とがさ(一一一八・一メートル)の東麓、てんノ川左岸に立地。天川三名てんかわさんみよう郷に属する。慶長郷帳では村高六九・九一三石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android