山際七司(読み)ヤマギワ シチシ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「山際七司」の解説

山際 七司
ヤマギワ シチシ


肩書
衆院議員

生年月日
嘉永2年1月1日(1849年)

出身地
越後国西蒲原郡黒崎村木場(新潟県)

経歴
生家庄屋。幼時遠藤朝陽に漢学を学び、のち東京に遊学。明治5年新潟に自立社を設立し、雑誌「喚醒」を発行。12年新潟県議となり、国会開設運動の先頭に立って越後の総代として元老院建白書を提出した。自由党結成に奔走し、14年西園寺公望、松田正久らと「東洋自由新聞」を創刊。15年北辰自由党を結成し党首となる。16年高田事件で逮捕されたが釈放、18年には大阪事件に連座して禁錮2年。後藤象二郎大同団結共鳴、政府の条約改正に反対して活躍。23年第1回総選挙で衆院議員に当選した。

没年月日
明治24年6月9日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山際七司」の意味・わかりやすい解説

山際七司
やまぎわしちし
(1849―1891)

明治前期の新潟県の代表的民権家。嘉永(かえい)2年1月1日、西蒲原(かんばら)郡木場村の庄屋(しょうや)の家に生まれ、三島(さんとう)郡の漢学者遠藤軍兵に学んだ。父郡司の死後、庄屋・大河津分水用弁掛を継いだ。明治維新後、戸長などを歴任するなかで、民権思想に傾倒し、1878年(明治11)県会議員に当選。80年国会開設懇望協議会を主催、2回にわたって国会開設を請願。81年板垣退助を総理とする自由党の結成に参画し、幹事となった。その後、大阪事件、条約改正中止運動、大同団結運動に関係。一方、県内の大同団結を目ざした越佐(えっさ)同盟会を組織した。90年衆議院議員に当選したが、翌年(明治24)6月9日東京で死去

[本間恂一]

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朝日日本歴史人物事典 「山際七司」の解説

山際七司

没年:明治24.6.9(1891)
生年:嘉永2.1.2(1849.1.25)
明治時代の政治家。諱は義晴,字は鵬挙,号は海州,任天。越後木場村(新潟県黒埼町)の庄屋山際郡司とかふるの長男。妻はれい。戊辰戦争に郷勇団を組織して幕府軍に参加。維新後,戸長,県会議員を勤め,自立社を結成して新潟県内の自由民権運動を指導した。『東洋自由新聞』の創刊や自由党の結党にも参画し,高田事件(1883)や大阪事件(1885)に連座した。大同団結運動を経て第1回総選挙(1890)に当選。立憲自由党に所属したが,路線対立から除名処分され,国民自由党を結成した。黒埼町史編纂室が関係史料を整理解読している。<参考文献>顕彰会編『山際七司先生顕彰会趣意書』

(河西英通)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山際七司」の解説

山際七司 やまぎわ-しちし

1849-1891 明治時代の自由民権運動家。
嘉永(かえい)2年1月1日生まれ。生家は越後(えちご)(新潟県)の庄屋。自立社を設立して国会開設運動をおこす。明治14年自由党結成にくわわり,幹事。高田事件,大阪事件にかかわり,大同団結運動,条約改正反対運動をすすめた。23年衆議院議員。明治24年6月9日死去。43歳。

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367日誕生日大事典 「山際七司」の解説

山際 七司 (もたい たけし)

生年月日:1849年1月2日
明治時代の自由民権家。衆議院議員
1891年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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