岡田以蔵(読み)おかだいぞう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡田以蔵」の意味・わかりやすい解説

岡田以蔵
おかだいぞう
(1838―1865)

幕末土佐藩剣士刺客高知城下に近い土佐郡江ノ口村の郷士の子。城下武市半平太(たけちはんぺいた)(瑞山(ずいざん))道場、ついで江戸桃井春蔵(もものいしゅんぞう)道場で剣術を修業し、1860年(万延1)半平太について九州諸藩を歴遊、剣で名声をあげた。土佐勤王党に加盟、62年(文久2)藩主山内豊範(とよのり)に従って上洛(じょうらく)。薩摩(さつま)の田中新兵衛とともに、佐幕派人物に対し次々と斬奸(ざんかん)・天誅(てんちゅう)のテロを加え、「人斬(ひとき)り以蔵」として世人に恐怖され、ついには同志にも警戒された。のち出奔して京摂の間に潜伏したが、64年(元治1)京都で土佐藩吏に捕らわれ、高知護送投獄され、翌年閏(うるう)5月11日、無宿者の扱いで斬首晒首(さらしくび)の刑に処せられた。

[関田英里]

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改訂新版 世界大百科事典 「岡田以蔵」の意味・わかりやすい解説

岡田以蔵 (おかだいぞう)
生没年:1838-65(天保9-慶応1)

幕末の暗殺者。土佐国土佐郡江口村居住の郷士の子に生まれた。江戸の桃井春蔵門で剣術を修め,武市瑞山の下にいて剣の使い手として知られた。1861年(文久1)結成の土佐勤王党に従い,上洛後は尊王攘夷志士として佐幕派に対する天誅をくりひろげ,〈人斬り以蔵〉として恐れられた。勝海舟護衛の任についたこともあるが,土佐勤王党弾圧のときに捕まり,土佐藩の手で斬罪に処された。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡田以蔵」の解説

岡田以蔵 おかだ-いぞう

1838-1865 幕末の武士
天保(てんぽう)9年生まれ。土佐高知藩の郷士。江戸で桃井春蔵に剣をまなび,のち土佐勤王党にくわわる。京都で薩摩(さつま)の田中新兵衛とともに本間精一郎を殺すなど,おおくの暗殺事件に関係,「人斬(き)り以蔵」とよばれた。藩吏に捕らえられて高知におくられ,慶応元年閏(うるう)5月11日処刑された。28歳。名は宜振(よしふる)。変名は土井鉄三。
【格言など】君がため尽す心は水の泡消にし後は澄み渡る空(辞世)

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