日本大百科全書(ニッポニカ) 「桃井春蔵」の意味・わかりやすい解説
桃井春蔵
もものいしゅんぞう
(1825―1885)
いわゆる幕末江戸の三大道場の一つ、鏡新明智(きょうしんめいち)流士学館(しがくかん)の当主。名は直正(なおまさ)。沼津藩士田中重左衛門の二男で幼名甚助(じんすけ)。1838年(天保9)14歳で3代目春蔵直一(なおかず)の門に入り、17歳で初目録を得、その天才的な太刀筋(たちすじ)を見込まれて婿養子となり、25歳で奥伝を受け春蔵を襲名した。28歳で4代目を継ぐころには、千葉栄次郎、斎藤新太郎らと並ぶ江戸一流の若手の大家といわれ、「位は桃井」の世評を得た。彼の剣名を慕って全国諸藩からの入門者や、短期の随身者が多数集まり、千葉栄次郎の玄武館、斎藤新太郎の練兵館とともに、江戸の三大道場とよばれた。57年(安政4)ころには、土佐藩の武市半平太(たけちはんぺいた)が塾監を勤めている。63年(文久3)春蔵は幕府の講武所剣術教授方に登用され、66年(慶応2)同師範役並(しはんやくなみ)に進んだが、幕府の兵制改革によって遊撃隊頭取に転じ、翌67年将軍慶喜(よしのぶ)の上洛(じょうらく)に随行して入京、のち大坂に転じ、玉造(たまつくり)の臨時講武所に出仕し、剣術師範役に任じたが、同11月部内の意見と対立して辞任し、野に下った。
明治維新後も東京には帰らず、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)(羽曳野(はびきの)市)の社司(しゃし)や陵掌(りょうしょう)などを勤めたが、1885年(明治18)夏流行したコレラに倒れ、波瀾(はらん)の生涯を閉じた。なお、門下にも俊才が多く、上田馬之助(うえだうまのすけ)、阪部大作(さかべだいさく)、兼松直廉(かねまつなおやす)、久保田晋蔵(くぼたしんぞう)、梶川義正(かじかわよしまさ)、逸見宗助(へんみそうすけ)らは、明治前期の警視局(庁)剣術の中心人物として活躍した。
[渡辺一郎]