岩原村
いわはらむら
[現在地名]堀金村大字烏川 岩原
烏川扇状地の扇頭にあって、石混じりの畑地が多い。寛永四年(一六二七)の検地に上下両堀金村から分離独立している。角蔵山の東麓に古墳(末期)が数基存在する。安楽寺大門六地蔵付近で弥生式土器・土師器が出土。角蔵山の山麓沿いには沢水や堤があって北から南へ北海渡(堀金村、現山口裕氏屋敷)・内海渡・源二郎海渡の地名が点在している。
烏川谷の栃平には江戸時代の中頃まで百姓が住んでおり、また、小野沢入りの太郎屋敷、二ノ沢と本沢の間の屋敷の久保・弥三郎屋敷等には江戸時代に木地屋が居住していた。太郎屋敷付近のお種沢に菊紋の石祠(嘉永元年、願主六兵衛)があり泉がある。この水は霊水で、眼病によく効くという。
岩原村の氏神は、古くは上堀金の諏訪社であったが、昭和三八年(一九六三)以後烏川谷の入口須砂渡に祀られている山神神社となっている。
岩原村
いわはらむら
東は仁良塚新田、南は荒針村と原野山林で接し、東・南・北の三方は岩山がめぐり、西方は平坦である。肝煎高橋左京亮は文禄五年(一五九六)芳賀十郎高成より官途状を授与され、子孫は代々名主を勤めたという。近世を通じて宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一三五石余・畑方五二石余とある。天和二年(一六八二)の宗門改帳(高橋悦郎文書)では家数二二、男一〇四・女九八。宝永八年(一七一一)の村明細帳(高橋正周文書)によれば田高一五九石余・反別二四町一反余、畑高七三石余・反別二二町二反余、家数三七(うち分地一二・前地二・寺一)、男一三三・女九七、牡馬二八、郷蔵一がある。
岩原村
いわはらむら
[現在地名]長崎市筑後町・玉園町・西坂町・立山一―五丁目
長崎湊の湾奥部に臨み、長崎筑後町に接する。湊側に西坂、その北東に立山が続く。西坂は浦上や時津(現時津町)方面に通じる浦上街道が通り、幕末期に関所が置かれた。はじめ大村藩領、慶長一〇年(一六〇五)より幕府領で長崎代官支配となる。元和六年(一六二〇)当郷に本蓮寺が創建されたというのも(長崎志)、長崎市中に接するためで、同寺は寺町のうち。正保国絵図に岩原村として高四〇石余。元禄国絵図に村名がみえるが、天保郷帳では長崎村のうちで、のち長崎村一三郷の一つとして扱われる。
岩原村
いわばるむら
[現在地名]鹿央町岩原
岩原川左岸、米野山北側山裾に立地し、北は志々岐村(現山鹿市)、西は小原村(同上)と接する。鎌倉初期に成立した八幡宇佐宮御神領大鏡(大分県到津文書)にみえる「山香南郷石原別符」は当地に比定される。南北朝末期に目野山満光寺で書かれた大般若経第五五三巻(佐賀県玉林寺蔵)の奥書に「肥後国山鹿郡南庄岩原目野山満光寺本堂之大般若経」とある。
慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田八二町四反四畝余・畠一〇九町一反五畝余・屋敷七四筆七町三反四畝余、分米一千六五八石余。近世は玉名郡中富手永に属した。「国誌」には「萱原村田中村桑鶴村宮村清泰村等ノ小村アリ」とある。文化一一年(一八一四)の中富手永手鑑では人数二八二・家数七四、馬五六、造酒屋一、水車一、商札一、田下ケ名は古原・沖田・扇田・下瀬戸など一一、畑下ケ名は小原田・大ノ原など八ある。
岩原村
いわはらむら
[現在地名]南足柄市岩原
狩川が要定川・洞川を東で合して北東を流れ、北西は塚原村、南は沼田村と接し、甲州道が東を南北に通り字坂下で富士道と合する。応永二九年(一四二二)八月一八日の道光(大森頼春)田地寄進状(県史三)に「かのゝしやうの内御れう所分の内ゆわハらのしせん入道かひかゑふん」とあり、関東公方の直轄領であったが、駿河二岡神社(現静岡県御殿場市)に寄進された。
近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳記載の石高二四四石余に対し、元禄郷帳では三六三石余、天保郷帳では四五八石余に増加している。
岩原村
いわはらむら
[現在地名]大豊町岩原
北流する吉野川の東岸にある山村。「土佐州郡志」は「阿州界也、東西十八町南北四十五町」と記す。阿波国への往還が通る。地名は天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「南地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「岩原名」とみえ、検地面積六町三七代一歩、うち田分一町三反一七代三歩、畠分二町四反二四代四歩、屋敷二二で二町二反四五代。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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