岩尾城跡(読み)いわおじようあと

日本歴史地名大系 「岩尾城跡」の解説

岩尾城跡
いわおじようあと

[現在地名]山南町和田

和田わだ集落北のへび山頂、標高三五八メートル、比高二三〇メートルにある城跡。東斜面は急崖で山頂からは牧山まきやま川の渓谷、さらに加古川も見渡せる。文明二年(一四七〇)蛇山の東麓しろヶ谷に谷出雲守が住み着き、堀をもつ居館を構えたという(丹波志)。永正一〇年(一五一三)に信濃国南和田(現長野県松本市)出身の和田日向守斉頼が谷氏を討ち、同一三年に「山ノ峯」に「蛇山岩尾之城」を築いた(「和田邑之来由」木戸家文書)。斉頼の死後師季が家督を継いだが、天正七年(一五七九)明智光秀丹波攻めの際攻め落されたという。


岩尾城跡
いわおじようあと

[現在地名]矢部町城原

東を除く三方五老ごろうたき(轟川)に囲繞された丘陵(標高四八二メートル、比高約三〇メートル)にある。「事蹟通考」によれば古くは亀甲城とも称した。貞応元年(一二二二)阿蘇大宮司惟次が愛藤寺あいとうじ城とともに築城したと伝えられる。「古城考」には「阿蘇大宮司、小国南郷矢部に住す、後に当城に居す、又麓の陣内を居館とし」当城には城代を置いたとしている。この居館がはまの館で、日常は浜の館に居住し、非常の際に立籠るための城であった。「八代日記」天文二一年(一五五二)三月五日条に「矢部(阿蘇)(惟)豊岩尾城火事」とある。


岩尾城跡
いわおじようあと

[現在地名]佐久市岩尾

村の西端、千曲川と川の合流点に近い台地上にある平山城。

「佐久市の文化財」によれば城は東方を大手とし、本郭は最高所にあって梯形をし、東方二の郭との境に土塁跡を残す。二の郭はほぼ長方形で、東に梯形の三の郭があり、三の郭の東側は急斜面となって、下に三日月堀の跡がある。その東を南北に走る土塁跡は、北端直角に西に屈折して台曲輪をつくる。また本郭の西は細長い一郭となり、その西に堀切を隔ててもう一郭ある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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