轟村(読み)とどろくむら

日本歴史地名大系 「轟村」の解説

轟村
とどろくむら

[現在地名]今市市轟

鬼怒川右岸の広い氾濫原西側段丘上を占め、北は川室かわむろ新田・大渡おおわたり村、東・南は町谷まちや村。河内かわち郡に属する。南部を東西に日光北街道が通り、中央で南北に走る御老中ごろうじゆ街道と交わる。今市扇状地の末端にあたるため各所に小湧水があり、東流する小川数本も用水などに利用される。集落は日光北街道沿いに並び、北東方に離れて曲沢まがりさわの集落がある。日光山往古社領六十六郷のうちに「土々呂久郷」があり、大聖房領(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。近世初めは結城秀康領・板橋藩領を経て元和三年(一六一七)下総山川藩領。寛永一〇年(一六三三)・一一年の「板橋領轟村」の年貢割付状(狐塚ヤイ文書)があり、高二三九石余、畑のみで三六町三反余・屋敷二町八反余、年貢二一貫八〇一文のうち三〇〇文が綿・麻・花・大豆の代金納分である。

轟村
とどろきむら

[現在地名]芦原町轟木とどろき

金津かなづ宿(現金津町)の西南で、竹田たけだ川と兵庫ひようご川の間の平野部にあり、東方の新田しんでん(上番村の枝村)と隣接する。河口庄田地引付(大乗院文書)の弘安一〇年(一二八七)注進分に河口かわぐち荒居あらい郷内の田地として「土々呂岐」があり、一四丁二反六〇歩、分米一〇六・六二五石(反別七斗五升代)と記されるほか、応長元年(一三一一)の河口御庄所当米収納帳(同文書)には「土々呂岐春吉米」の記載もある。また年未詳ではあるが、河口庄御検注郷々仏神田注文(大連家文書)には、山荒居やまあらいを除いた荒居郷(すなわち西荒居土々呂岐)には二町七反の仏神田があり、そのなかには「土々呂岐神田一反」のあったことが記されている。

轟村
とどろきむら

[現在地名]加美町轟

山口やまぐち村の北、南流する杉原すぎはら川上流域に位置する。天正一九年(一五九一)一二月二日の林与一郎売券(雲門寺文書)に村名がみえ、村内の壟地敷を雲門うんもん寺に売却している。慶長国絵図には「とゝろき」と記載される。慶長一五年(一六一〇)検地帳(轟区有文書)によれば田方七町四反余、畑・居屋敷九町九反余。正保郷帳では田方一〇〇石余・畑方七〇石余、幕府領。寛文四年(一六六四)の年貢免状(轟区有文書)では高一七一石余、本途物成高六〇石余、小物成銀四三匁(山役銀一八匁・紙漉役銀一八匁・鉄砲役銀七匁)

轟村
とどろきむら

[現在地名]竹野町轟

小丸こまる村の南、竹野川下流域に位置する。集落南西方のしろ山に垣屋氏が拠った轟城跡がある。江戸時代領主変遷宇日うひ村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高一三〇石余。元禄九年(一六九六)の但州村々法度五人組帳(冨森家文書)でも同高。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(細田家文書)でも高に変化はない。家数四一・人数二二〇、牛一〇。

轟村
とどろくむら

[現在地名]甘楽町轟

北西部にじよう山、南部に熊倉くまくら山・じゆれい山などがあり、村央を川が東北流する。東と北は小幡おばた村、西は国峰くにみね村・秋畑あきはた村、南は多胡たご上日野かみひの(現藤岡市)と接する。近世はおおむね小幡藩領。寛永一四年(一六三七)の検地帳(新井文書)によると畑反別三〇町七反九畝余・屋敷反別一町余。同一七年の年貢割付状(田村文書)によれば上・中畑で一〇町七反八畝余で、合永三六貫五七〇文とある。安永年間(一七七二―八一)の領内物納調(松浦文書)では真綿二貫一六〇匁・大豆四石四斗・萱五駄・薪一一九束余とあり、文政前後の領内村々書上帳(同文書)によると五町七畝余の新畑があって納合永五八貫余、山林一ヵ所・百姓預林四ヵ所・大野秣場二ヵ所があり、四季打鉄砲四挺を所持する。

轟村
とどろむら

[現在地名]十和村昭和しようわ

茅吹手かやぶくて村の西方、きたノ川との合流点辺りから、四万十しまんと川が大きく弧を描いて南流し四手崎しでざきの突端にかかる辺り、四万十川東岸(左岸)にある。上山かみやま下分しもぶんの一村。「土佐州郡志」は「東限添谷、西限大川、南限怪我谷、北限藤上、東西二町南北十町、戸七、其土黒」と記す。地名は慶長二年(一五九七)上山郷地検帳の「是ヨリ平串村」と記されたなかに、平串ひらぐし村・カヤフクテ(茅吹手)などとともにみえる(→茅吹手村

轟村
とどろきむら

[現在地名]米沢市六郷町轟ろくごうまちとどろき

桐原きりはら村の南に位置し、鬼面おもの川西岸の湧水地帯に立地。戦国時代には上長井のうち。天文七年(一五三八)の段銭古帳によれば、上長井庄のうち「とゝろき」から六貫五〇〇文を納めている。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば轟のうちで、瀬上中務大輔が「くねほり在け」「いちのつほ在け」「ひせんやしき」「なかの在け」「たての在け」「うきめん」「ミやち」「下やち」「とうきうつくり」などを与えられている。天正一五年(一五八七)の上長井段銭帳によれば、当地から粟野助三・牛越上総守分の合せて三四〇文を納めている。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四七五石余、免三ツ二分、家数二〇(うち役家四・肝煎一)・人数四五。

轟村
とどろきむら

[現在地名]矢部町城原じようばる

はま町の東に位置し、北・西・南を五老ごろうたき(轟川)が蛇行して取囲む。「国誌」によると古くは土々呂村と称したといい、「肥集録」は轟木村と記す。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高五八石四斗余、田畝一町四反二畝余・畑畝三町一反八畝余、竈数六・男一〇・女一〇、牛六・馬二。明治八年(一八七五)桐原きりわら村と合併して城原村となった。合併後の同一五年の民業戸数は農業二八・紙漉職三、物産に麻苧・楮皮・桑葉・茶・干柿・生糸などがあった(郡村誌)

轟村
とどろむら

[現在地名]清川村左右知そうち

左右知村の南西、奥岳おくだけ川支流轟川沿いの山間にあり、南東は中山なかやま村。正保郷帳に村名がみえ、田高二八石余・畑高三一石余、宇田枝うたえだ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高六〇石余。安永七年(一七七八)には宇田枝組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

轟村
どめきむら

[現在地名]永平寺町轟

じよう山の北東麓に位置し、北を勝山街道が通る。北西は飯島いいじま村、南東は野中のなか(現上志比村)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では志比下しひしも之庄内に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方五一七石余・畠方二五四石余。枝村に浅野谷があった(越前国名蹟考)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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