岩屋城跡(読み)いわやじようあと

日本歴史地名大系 「岩屋城跡」の解説

岩屋城跡
いわやじようあと

[現在地名]太宰府市観世音寺

四王寺しおうじ山地南腹にある戦国期の山城跡。「続風土記」によれば宝満ほうまん城の支城として大友氏の家臣高橋鑑種によって築かれたというが、実際には大内氏時代よりみえる。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日、深野重親は大内政弘から夜須やす山家やまえ(現筑紫野市)五町の地を宛行われ「岩屋」在城を命じられ、同様に山道兼久・千手盛景らも所領を宛行われて岩屋在城を命じられている(「大内政弘下文写」正任記など)。また同一二年二月九日、讃井護重は大内氏から「三笠郡府領内漆町地野坂三郎跡」を宛行われ、岩屋城への在城を命じられている(「大内政弘袖判下文」讃井文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)

岩屋城跡
いわやじようあと

[現在地名]久米町中北上

中北上なかぎたかみの岩屋山にある中世の山城跡。県指定史跡。標高四八二・七メートルの岩屋山頂部に城郭が、南山麓に侍屋敷があった。東・西・北の三方は山と谷によって画され、南は出雲往来に面し、美作西部の要衝である。山頂西寄りに本丸が置かれ、北東に二の丸、東に三の丸が、南に本丸・馬場があり、大小約三五郭からなる。本丸と二の丸・馬場に囲まれた低部に井戸と池があり、池の流水域には水門が設置されている。水門から大手に至る尾根下に天台宗慈悲門じひもん寺跡があり、枯山水の石組が現存する。

岩屋城跡
いわやじようあと

[現在地名]淡路町岩屋

岩屋地区の東端に張出した小丘陵上にある近世初頭の城跡。慶長一五年(一六一〇)に池田家の淡路経営の拠点として築かれたが、同一八年には由良ゆら(現洲本市)が築かれたため早くも廃城となっている(「淡路草」「淡州須本城并古城伝」など)。丘陵頂上の長方形を呈する台地が主郭であるが、縁辺は崩落が著しい。南西隅には櫓台が存在したという(淡路草)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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