岩田町
いわたちよう
[現在地名]岡山市岩田町
西川の西側に東西に走る山陽道に沿って発達した両側町。東は西川、向いは富田町、南は武家屋敷・上出石村、西は万町、北は南方村。延宝四年(一六七六)野殿町出口にあった銀子町・六郎右衛門町・新四(または五)郎町の三町を御用屋敷に召上げ、替地として万成口上出石村内で東西一九二間(うち四間横道)・南北四五間(うち五間山陽道)を与え、岩田町・万町の二町とした。各家の奥行は二〇間で、各商・工人自身で宅地とするよう命ぜられ、移転料として岩田町には家下一坪につき銀五匁ずつ与えられた。また両町全周の細堀は普請奉行方で掘ったという(吉備温故秘録)。
岩田町
いわたまち
[現在地名]南区東清水町
綿袋町の西にあり、丼池筋と清水町筋の交差点を中心に東西南北各半町ずつ。町名は延宝七年(一六七九)からで、それ以前は明暦元年(一六五五)から西清水町といった(南区志)。大坂町之内町名替り候写によると、岩田町はもと西清水町の西半分であった。大坂三郷南組に属し、元禄四年(一六九一)には屋敷数は不明、役数は三四半役で、うち年寄分一役が無役。年寄は山田屋九兵衛。三四半役のうち八役は他町持ち、六役は町内持ち、残りの二〇半役は町内の町人二一人の居住であった。人数四四七、うち家持人二一・家守二・家持妻子六七・借屋人二七九・下人下女七八(「大坂南組岩田町人別巻」中之島図書館蔵)。
岩田町
いわたちよう
[現在地名]津市岩田
伊予町の南に続く伊勢参宮街道沿いの町。伊予町との境に釘抜門があり、そこから立合町へ曲るところまで一直線の町で、元禄六年(一六九三)調べで町の長さ二町四四間であった(津町間数調「津市史」)。伊予町とともに橋の南では最も早く発展した町と考えられ、藩の助成の故もあって、明暦三年(一六五七)頃から家が立並ぶようになったと思われる(「伊勢奉行言上」同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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