日本大百科全書(ニッポニカ) 「岸信介内閣」の意味・わかりやすい解説
岸信介内閣
きしのぶすけないかく
石橋湛山(いしばしたんざん)内閣の後を受け、岸信介を首班として組織された内閣。
[荒 敬]
第一次
(1957.2.25~1958.6.12 昭和32~33)
石橋首相の病気辞任後成立した第一次岸内閣は、全閣僚とその施策を石橋内閣から引き継いだ。だが1957年7月、内閣改造により自前の政権をつくった。外相に財界の巨頭藤山愛一郎を起用し「経済自主外交」を推進した。日韓会談を再開する一方、賠償問題の解決を軸に海外市場の開拓、資金援助を通して東南アジア諸国への経済進出の足場をつくった。「第一次防衛力整備計画」を閣議決定した直後の同年6月、日米会談で日米安全保障条約再検討のための日米委員会設置を決め、「日米新時代」到来を謳歌(おうか)した。反面、日中貿易を1958年5月全面停止させ、前内閣以来の日中関係改善の動きに終止符を打った。1957年12月「新長期経済計画」を策定、高度成長経済政策を実施するなかで政・財界癒着構造をつくりだした。1958年4月社会党と「話し合い解散」し、5月第28回総選挙を行った。
[荒 敬]
第二次
(1958.6.12~1960.7.19 昭和33~35)
第二次岸内閣は、組閣人事で岸体制を確立する一方、革新勢力との対決姿勢を強く打ち出した。まず教育統制を強める文教政策を実施した。日教組の反対運動のなかで「管理職手当法」制定(1958年7月)、道徳教育の義務化(同年8月)、教職員の勤務評定の実施(同年9月)を行った。また1958年10月、治安対策強化をねらいとして警職法改正案を国会に提出したが、大衆的な反対運動と党内反主流派の批判表面化によって廃案となった。以後、岸内閣はおもな課題を日米安全保障条約改定に移し、1960年1月新条約に調印した。5月19日、政府が国会で同条約を強行採決するに及んで、1959年秋以来高揚してきた反対運動は爆発的に盛り上がり、連日国会包囲デモが展開された。こうしたなかで6月15日未明デモ隊と警官隊との衝突で死者を出すに至り、岸内閣は米大統領アイゼンハワーの訪日中止を要請。結局、新条約は自然成立した。岸内閣は責任をとって総辞職し、池田勇人(はやと)内閣が後を受け継いだ。
[荒 敬]
『歴史学研究会編『戦後日本史3・4』(1961、62・青木書店)』▽『藤井松一他著『戦後日本の歴史』上下(1970・青木書店)』▽『辻清明他編『日本内閣史録5』(1981・第一法規出版)』▽『『岸信介回顧録』(1983・広済堂出版)』▽『中村隆英・宮崎正康著『岸信介政権と高度成長』(2003・東洋経済新報社)』