藤山愛一郎(読み)ふじやまあいいちろう

改訂新版 世界大百科事典 「藤山愛一郎」の意味・わかりやすい解説

藤山愛一郎 (ふじやまあいいちろう)
生没年:1897-1985(明治30-昭和60)

財界出身の政治家。経済界の巨頭藤山雷太(1863-1938)の長男として東京に生まれた。慶応大学法学部中退。父のあとを継ぎ1934年に大日本製糖の社長となり,41年,44歳の若さで東京商工会議所会頭,日本商工会議所連合会会長就任した。第2次大戦後公職を追放されたが,50年の追放解除後,経済同友会代表,51年日本航空会長,東商会頭,日商会頭となって長い間財界トップの座にあった。57年,かねて親交のあった岸信介首相の強い要請を受けて外相に就任,58年の総選挙で当選し政界に入った。3年にわたって外相を務め,岸を助けて日米安全保障条約の改定と取り組み,60年1月,現行の日米安保条約を締結した。藤山の意図は不平等条約の是正にあったが,岸の政治的体質への国民の反発もあって,〈60年安保〉と呼ばれる国論の対立,抗争を招いた。岸引退後の自民党総裁争いに立候補して藤山派を結成し,その後も2度総裁選挙に出馬するなど政権の座をめざしたが,私財を傾け尽くした政治活動も,利権政治横行の政界には通ぜず,藤山派はしだいにやせ細り,藤山はついに75年9月に引退を表明した。

 すでに戦前2度も訪中,蔣介石と会見するなど中国への関心の深かった藤山は,晩年を日中友好,国交回復にささげた。1955年にはバンドン会議で周恩来らの中国代表団と同席,60年安保のさいも〈日米安保のあとは日中打開だ〉ともらしていたが,70年3月,日中関係打開の先達松村謙三に同行した訪中以後,藤山はしだいに日中国交回復運動の中心的存在となり,70年12月日中国交回復促進議員連盟を結成した。71年10月,日中議連の訪中団長として日台条約を無効とする共同声明に調印,自民党から党紀違反の処分を受けたが屈しなかった。また日中国際貿易促進協会会長として日中経済関係の発展にも貢献した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤山愛一郎」の意味・わかりやすい解説

藤山愛一郎
ふじやまあいいちろう
(1897―1985)

実業家、政治家。東京生まれ。財界首脳藤山雷太(らいた)の長男。慶応義塾大学政治学科を病気のため中退。大日本製糖(大日本明治製糖の前身)、日東化学工業(1998年三菱(みつびし)レイヨン〈現、三菱ケミカル〉に吸収合併)の社長を経て1941年(昭和16)日本商工会議所会頭。1942年海軍省顧問として南方占領地を視察。1944年東条英機(ひでき)内閣打倒を図る。第二次世界大戦敗戦後、公職追放となり、1950年(昭和25)解除。1956年日比賠償会議全権委員として協定調印。1957年7月から第一次・第二次岸信介(のぶすけ)内閣の外相。日米安全保障条約改定の折衝にあたった。1958年以来衆議院議員(神奈川1区)。第二次池田勇人(はやと)内閣経済企画庁長官、自民党総務会長を歴任。日中国交回復に尽力する一方、1964年以降政権担当を企図し、自民党総裁選で池田、佐藤栄作と争って敗北し、1975年に政界を引退した。

[荒 敬 2019年2月18日]

『藤山愛一郎著『私の自叙伝』(1957・学風書院)』『藤山愛一郎著『政治わが道 藤山愛一郎回想録』(1976・朝日新聞社)』『『私の履歴書 経済人2』(復刊・2004・日本経済新聞社)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「藤山愛一郎」の解説

藤山 愛一郎
フジヤマ アイイチロウ*


肩書
元・衆院議員(自民党),元・外相,日本国際貿易促進協会長,元・大日本製糖社長

生年月日
明治30年5月22日

出生地
東京都北区

学歴
慶応義塾大学法学部政治科〔大正7年〕中退

経歴
大正8年から財界活動に入って大日本製糖、日本化学工業各社長を務め、昭和16年44歳の若さで日本商工会議所会頭となり、日航会長なども歴任。32年岸首相の懇請で、非議員のまま「絹のハンカチをぞうきんに…」と評されながら外相に就任、日米安保条約の改定交渉に当たった。33年以来衆院選に当選6回、51年には政界を引退。この間、池田・佐藤両内閣の経企庁長官のほか自民党総務会長を務め、藤山派を結成して3度総裁選にのぞんだが、いずれも敗れた。また日中貿易促進、日中国交回復促進、両議連会長、政界引退後も国際貿易促進協会(国貿促)会長として、日中関係改善に情熱を傾けた。著書に「政治わが道」「社長くらし三十年」など。

受賞
勲一等旭日大綬章〔昭和42年〕

没年月日
昭和60年2月22日

家族
父=藤山 雷太(実業家) 弟=藤山 勝彦(大日本製糖会長) 藤山 洋吉(日東化学工業副社長) 長男=藤山 覚一郎(大日本製糖会長)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「藤山愛一郎」の解説

藤山 愛一郎
フジヤマ アイイチロウ

昭和期の政治家,実業家 元・衆院議員(自民党);元・外相;日本国際貿易促進協会長;元・大日本製糖社長。



生年
明治30(1897)年5月22日

没年
昭和60(1985)年2月22日

出生地
東京都北区

学歴〔年〕
慶応義塾大学法学部政治科〔大正7年〕中退

主な受賞名〔年〕
勲一等旭日大綬章〔昭和42年〕

経歴
大正8年から財界活動に入って大日本製糖、日本化学工業各社長を務め、昭和16年44歳の若さで日本商工会議所会頭となり、日航会長なども歴任。32年岸首相の懇請で、非議員のまま「絹のハンカチをぞうきんに…」と評されながら外相に就任、日米安保条約の改定交渉に当たった。33年以来衆院選に当選6回、51年には政界を引退。この間、池田・佐藤両内閣の経企庁長官のほか自民党総務会長を務め、藤山派を結成して3度総裁選にのぞんだが、いずれも敗れた。また日中貿易促進、日中国交回復促進、両議連会長、政界引退後も国際貿易促進協会(国貿促)会長として、日中関係改善に情熱を傾けた。著書に「政治わが道」「社長くらし三十年」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「藤山愛一郎」の意味・わかりやすい解説

藤山愛一郎【ふじやまあいいちろう】

財界出身の政治家。東京生れ。慶応大学中退。1934年父の後を継いで大日本精糖社長となり,第2次大戦後は日本航空会長,日本商工会議所会頭など常に財界トップにいた。1957年岸内閣の外相となり,翌年の総選挙で当選し政界入り。以後,当選6回。日米安全保障条約改定交渉に外相として取り組み,1960年安保闘争の混乱のなか岸内閣が総辞職したため自由民主党総裁選に出馬,その後も藤山派を結成して総裁への挑戦を重ねたが,いずれも失敗。巨額の私財を政治に注ぎ込んだが,1976年失意のうちに政界を引退。中国通として知られ,日中国交回復に尽力した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤山愛一郎」の意味・わかりやすい解説

藤山愛一郎
ふじやまあいいちろう

[生]1897.5.22. 東京
[没]1985.2.22. 東京
実業家,政治家。慶應義塾大学を中退。父藤山雷太の大日本製糖社長を継ぐ。 1941年東京商工会議所会頭。第2次世界大戦後も公職追放解除後,51年日本航空会長,東商および日本商工会議所会頭となり,政財界に大きな発言権をもった。 57年岸首相の要請で外相に就任。日米安全保障条約改定の当事者となる。 70年からは松村謙三に代って日中友好を促進,復交に意欲を燃し,超党派の「日中国交回復議員連盟」「日本国際貿易促進協会」の会長となった。 76年政界を引退。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤山愛一郎」の解説

藤山愛一郎 ふじやま-あいいちろう

1897-1985 昭和時代の実業家,政治家。
明治30年5月22日生まれ。藤山雷太(らいた)の長男。昭和9年大日本製糖社長となり,16年東京商工会議所・日本商工会議所会頭。戦後,公職追放をへて,32年から岸内閣の外相をつとめ日米安保条約改定をすすめる。33年衆議院議員(当選6回,自民党)。日中国交回復につくした。昭和60年2月22日死去。87歳。東京出身。慶応義塾中退。

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367日誕生日大事典 「藤山愛一郎」の解説

藤山 愛一郎 (ふじやま あいいちろう)

生年月日:1897年5月22日
昭和時代の政治家;実業家。衆議院議員;大日本製糖社長
1985年没

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