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日米関係 にちべいかんけい

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知恵蔵の解説

日米関係

小泉首相は、2001年4月就任後の6月下旬訪米、キャンプデービッドブッシュ大統領と会談し「安全と繁栄のためのパートナーシップ」という共同声明を発表、「揺るぎない同盟」をうたった。また記者会見後2人はキャッチボールに興じるパフォーマンスをみせた。しかし01年9月11日の同時多発テロが局面を大きく変えることになった。日本政府は米国のテロリストに対する「新しい戦争」を支持し、小泉首相が訪米してその旨を伝えると共に、一連の支援措置を整備した。同年10月下旬、テロ対策特別措置法が成立、それに基づきアフガニスタンでの米軍などの行動を支援するため、12月上旬に海上自衛隊補給艦を派遣し、アラビア海の米艦隊に燃料補給を開始した。また資金面でも、02年1月21〜22日、東京でアフガニスタン復興支援国際会議を開催し、以後2年半で5億ドルを拠出することを約束した。同年2月17〜19日には、ブッシュ大統領が来日した日米首脳会談、6月下旬にはカナダで開催されたサミットに先立ち日米首脳会談が行われた。同時多発テロ以降、イラク問題が国際的焦点となり、03年3月19日にブッシュ米大統領がイラク攻撃開始を発表した直後、小泉首相は「武力行使を理解し、支持する」と述べた。一方、北朝鮮の核問題は、5月22〜23日に米テキサス州のブッシュ大統領私邸で開かれた日米首脳会談でのテーマとなり「対話と圧力」で応ずること、イラク復興支援では小泉首相は、人道物資支援の輸送支援として、周辺国に自衛隊輸送機を派遣することを表明した。また拉致問題については、米大統領は同事件を強く非難、「拉致された日本国民の行方が1人残らずわかるまで米国は日本を完全に支持する」と強調した。6月6日、外国からの武力攻撃への対応を定めた武力攻撃事態対処法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法の有事法制3法が成立。先の日米首脳会談でブッシュ米大統領が「目に見える協力」を日本側に要請し、その後米国から陸上自衛隊の派遣を要請する声が高まる中で、イラク復興支援特別措置法が7月25日に成立した。また期限切れになるテロ対策特別措置法の改正案が10月10日、内閣改造後の臨時国会で成立した。イラク問題・北朝鮮問題を基調とする日米関係はその後も変わらず、10月17日に来日したブッシュ大統領との首脳会談は「世界の中の日米同盟」という観点からイラク・北朝鮮問題が話し合われた。12月9日、イラク特措法に基づき自衛隊のイラク派遣基本計画を閣議決定、04年1月から重火器を携帯する陸上自衛隊などがイラクに本格的に派遣されていった。また6月下旬のイラクへの主権移譲を前にして、米国のシーアイランドで開催されたG8サミットの際、6月8日に行われた日米首脳会談において、小泉首相は多国籍軍に参加することを事実上表明し、15日には「統合司令部(unified command)」の指揮下には入らないという統一見解をまとめ、18日には多国籍軍参加を閣議決定した。04年9月下旬、小泉首相はニューヨークでブッシュ大統領と会談、国連での演説では安保理常任理事国入りの意欲を表明した。04年11月の大統領再選以来、ブッシュ政権はイラク情勢の混迷打開に忙殺され、イラク戦争で亀裂が走った西欧諸国との関係改善と北朝鮮の核問題を優先課題としたため、首脳会談が開催されたのは、1年後の05年11月京都の迎賓館であった。この会談では日米関係が最重要であることが再確認され、小泉首相は「日米関係が良いからこそ、日本と中国、韓国、ASEANとの良い関係が維持されてきた」という認識を示した。06年9月の首相退陣を前にして06年6月下旬最後の日米首脳会談がワシントンで開催され、自由や民主主義などの普遍的価値観を共有する国同士として共通の利益を追求していくことをうたった「新世紀の日米同盟」という共同文書を発表した。牛海綿状脳症(BSE)で03年12月輸入禁止された米国産牛肉の輸入再開問題は、05年12月に再開されたものの、06年1月輸入牛肉に危険部位の混入が発見されたため再び全面輸入禁止となったが、米からの圧力もあり6月に再開で合意、7月下旬再開が正式決定された。

(高橋進 東京大学大学院法学政治学研究科教授 / 2007年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日米関係
にちべいかんけい

日本とアメリカ合衆国との関係。[陸井三郎]

日本敗戦まで

幕末1850年代の、アメリカ最初の対日接触のときから日露戦争終結(1905)ころまでの約半世紀間の日米関係は総じて友好的であったが、その後のアジアにおける日本の勢力伸長に伴い、日米両国はしだいに鋭く利害対立するようになり、ことに日中戦争勃発(ぼっぱつ)(1937)以降は悪化の一途をたどった。第二次世界大戦(1939勃発)のアジア太平洋局面としての太平洋戦争(1941~1945)は、アジア太平洋における日米の利害関係の破局的衝突の結果という側面と、日本軍国主義のこれ以上の暴走を阻止し、これを解体させるという側面とをあわせもって戦われた。[陸井三郎]

対日占領政策の変転

日本の降服以後、連合諸国の日本占領の目的は、
(1)日本の武装解除と非軍事化、軍事機構の解体、
(2)戦争責任者の公職追放(および教職追放)、戦争犯罪者の逮捕と処罰、
(3)侵略戦争の一因となった過度経済力の集中の解体(財閥解体)、
(4)自由と政治的民主主義の実現、政治犯の釈放、
(5)地主制度の廃止による農地改革と労働組合の育成
など、要するに民主主義的な平和国家の建設に置かれた。これらの目的実現のための連合国による対日占領の管理は、形式上は極東委員会(ワシントン)の指令、対日理事会(東京)の諮問という形で行われたが、同じ敗戦国ドイツ占領における連合4か国管理とは異なり、実質的にはアメリカの単一占領のもとで進められた。そして当初はルーズベルト前政権の一翼を担うニューディール改革派の主導で占領改革が大幅に進められ、それは、占領軍総司令部(連合国最高司令官総司令部、GHQ)の示唆に基づいてつくられ1947年(昭和22)5月3日施行の新憲法(日本国憲法)で頂点を画した。この憲法は国民主権を明確にうたい、かつ国の交戦権を放棄した世界史的にも画期的なものであった。だが、占領下の約1年間で総司令部内の改革派は本国に召還されたのに加えて、悪性インフレ激化と経済情勢の悪化による労働運動の急進化に対して、総司令部は1947年2月1日のゼネスト(二・一スト)に禁止命令を発して弾圧に出た。一方、米ソによる朝鮮半島の分割占領、中国の国共内戦の激化、第一次インドシナ戦争(1946~1954)勃発、さらにトルーマン・ドクトリン発布(1947)などにより日本周辺のアジア情勢は大きく変化し、アメリカの対日占領政策は、日本をアジアにおけるアメリカの反共政策の砦(とりで)とし、極東軍事戦略の前進基地とし、経済的にも自由主義経済の堡塁(ほうるい)とする方向に大変転した。この趨勢(すうせい)を一段と決定的にしたのが中国革命の勝利(1949年10月)に続く朝鮮戦争の勃発(1950年6月)であった。日本国内の保守政界と財界主流が、この占領政策転換を大いに歓迎し利用したことはいうまでもない。こうして1948年末には経済安定九原則が打ち出され、翌年にはドッジ・ライン勧告に基づく経済安定デフレ政策が強行され、経済力集中の排除を大幅に緩和した財閥復活が容認され、政治的には共産党幹部の公職追放をはじめ、公務員・マスコミ・企業でのレッド・パージが断行されて、占領下の民主化政策の実績に対する「逆コース」が顕著になった。[陸井三郎]

朝鮮戦争と対日講和・日米安保

トルーマン政権は朝鮮戦争の全過程に全面的に干渉する政策をとり、このため日本の安定した保守政権の育成と経済再建の支持に積極的に取り組んだ。総司令部はまた日本国内120以上の米軍基地をこの戦争のために拡充強化して利用し、域外発注の朝鮮特需で日本経済の復興を大いに助けるとともに、日本政府に日本防衛と国内治安維持のための警察予備隊(やがて保安隊から自衛隊へ)の創設を命じて再軍備のための道を開いた。朝鮮戦争完遂に総力をあげるトルーマン政権は、アジアにおける前進基地、経済的堡塁としての日本を重視する政策を一段と強め、日本の協力をより確固とするため、早期の対日講和実現を得策として、1951年3月対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)案を発表、同年9月サンフランシスコでアメリカをはじめ48か国と日本との間で調印(批准発効は1952年4月)した。だが、この条約は中国、ソ連のほか多くの中立諸国が調印せず、これにより日本はいっそう深くアメリカの軍事、政治、経済戦略の枠組みのなかに置かれる結果となり、ことに講和条約と連動した日米安全保障条約は、日本の独立達成後も米軍基地および米軍駐留の容認、琉球列島(りゅうきゅうれっとう)、小笠原諸島(おがさわらしょとう)などの米軍行政権・基地利用の容認を含み、日本主権の制限、対米依存と従属の道を進むことになった。経済上も歴史的関係の深かった日中貿易は禁止され、かわりに賠償に結び付けて東南アジア諸国との日本の経済協力・市場確保が促進され、また日本は対米借款・世界銀行借款・MSA協定などによって経済再建と防衛力増強を大きく助長された。同時に、占領下に設定された固定為替(かわせ)レート(1ドル=360円)が日本の対米・対欧貿易を拡張させる大きな要因となった。その間、鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣(1954~56)が一時的に自主外交のスローガンで日ソ国交を回復し、国連加盟(1956)も実現し、また日中貿易も徐々に進展したが、続く岸信介(きしのぶすけ)内閣(1957~60)でまたも向米一辺倒の方向に逆転した。[陸井三郎]

60年安保体制・ベトナム戦争・沖縄返還

米軍基地の存在や駐留軍の役割など対米従属と日本歴代政権の自主性欠如への国民感情の鬱積(うっせき)を背景に、安保条約は1960年、日本の自主防衛強化の誓約、日米共同作戦の強化、在日米軍の「極東」地・水域への出撃の自由などを代償として改定されたが、改定内容にいっそうの危険を認めた国民感情および国会審議における強引な非民主的手続のため、戦後空前の反安保・反米の全国的大衆運動(安保闘争)が起こり、アイゼンハワー大統領の訪日も中止のやむなきに至ったほどであった。新安保条約の強行採決で倒れた岸内閣を継いだ池田勇人(いけだはやと)内閣は、一転して「国民所得倍増計画」を掲げて国民の経済的願望に目を向けた。以後、1960年代を通じて日本は経済成長と繁栄に向かい、東京オリンピックと、少し遅れてベトナム戦争の拡大が日本産業の拡大を大きく刺激した。ベトナム戦争の全過程でアメリカは、日本政府の協力と在日米軍基地の利用で新安保体制の意義を改めて見直し、一段と日本防衛力の増強を迫った。ただし、拡大した日本経済のなかでは、朝鮮特需のときほどベトナム特需は相対的に大きくなく、むしろベトナム戦争拡大はアメリカ産業の相対的役割を低下させ、日本製品のアメリカ・西欧市場への進出の契機となった。一方、アメリカ施政権下の沖縄では、初期の占領期から根強く続いた本土復帰・施政権返還・反米軍基地の闘争が、ベトナム戦争での沖縄基地の全面利用を背景にいっそう高まり、アメリカも佐藤栄作内閣のもとで、1971年6月沖縄返還協定に調印した(翌年5月発効)。しかしこのときは、米軍基地とその使用権はほとんど変更されなかった。[陸井三郎]

日米経済摩擦とデタント

日本政府は、アメリカの中国孤立化・台湾重視の政策をそのまま踏襲し、ベトナム戦争でも「日本は中立ではない」(外相椎名悦三郎、1964)との政策を続けていたが、ベトナム戦争が泥沼化するにつれて、アメリカの財政赤字は累積し、国際収支・貿易収支ともに毎年大きな赤字を生むに至ったばかりでなく、日米間の貿易も、当初は日本からの繊維製品・雑貨などから、やがて鉄鋼・船舶などを経て、カラーテレビ、カメラ、やがて自動車、精密機械、電子製品など付加価値の高い商品へとかわり、反対にアメリカ側からは当初の大型機械や電気製品などから、主として農産物、鉄鉱石、石油、石炭などの原材料へと構造的変化を遂げて、この傾向は年とともに強まる日米間の重大問題(日米経済摩擦)となって、いまに及んでいる。そうしたなかでベトナム戦争とドル防衛に失敗したジョンソン政権(1963~1969)の後を継いだニクソン政権(1969~1974)は、ベトナムの米地上軍を徐々に削減するかわりに、火力・機械力を大量投入するグアム・ドクトリン(ニクソン・ドクトリン)を展開するとともに、ベトナムを孤立化させるために、突如、中国、ソ連に個別に接近する「デタント」戦略(1971~1972)を展開した。同政権はさらに、これも突然、支えきれなくなった基軸通貨としてのドルの金兌換(きんだかん)を停止し、ドルの一方的切下げを行い、戦後国際通貨体制を瓦解(がかい)させ、いわゆる変動相場制に移行させたが、これによってもアメリカの経済的地位、わけても日米間の貿易不均衡はいささかも改善されなかった。日本政府はアメリカに追随して日中国交回復(1972)を行い、またベトナムに関するパリ協定(1973年1月)に応じてベトナム民主共和国(北ベトナム)を承認したが、いずれもアメリカの政策の後手に回ったことはいなめない。[陸井三郎]

石油危機からレーガン、フォード政権まで

ベトナムに関するパリ協定から9か月後、石油輸出国機構(OPEC(オペック))がドル価値の大幅目減りと先進諸国の中東民族運動圧迫に報復するため、石油価格の4倍値上げと一部先進諸国への石油禁輸の戦略を発動したとき、先進諸国は急激な景気後退と石油不足にみまわれたが(第一次オイル・ショック)、石油供給の国内依存率の高いアメリカといえども、石油メジャーの大半をアメリカ系資本が占めていることも一因となって重大な打撃を受けた。翌1974年8月の事実上の弾劾であるウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任は、実質的には、石油戦略によるドル体制の一段の悪化、ベトナム戦争の敗北、アメリカ権力の腐敗などをめぐる権力内部の闘争の結果であった。次のフォード政権(1974~1977)のもとで、南ベトナム解放、アメリカの敗北が最終的に確認され、日本政府もこれに応じて統一ベトナム(ベトナム社会主義共和国)を承認したが、それ以降もアメリカの政策に従ってベトナム敵視・経済封鎖の政策を続けた。しかし日本は、オイル・ショックから、他のすべての先進諸国に比べて早く立ち直り、日米間の経済矛盾は深まった。
 1970年代を通じてアメリカの世界政策は、かつて経済的、金融的に十分余力のある間には軍事的にも政治的、経済的にも西側世界全般の利益を代表してソ連圏・開発途上諸国への対応を維持していたが、しだいに軍事・経済の両面でアメリカ一国の利益のみを代表するようになり、日本だけでなく西欧諸国とアメリカとの間の矛盾はしだいに激しくなった。フォード政権とこれに続くカーター政権(1977~1981)が、一方で日本とNATO(ナトー)諸国に対ソ防衛力の着実な増加を要求しつつ、日本・NATOをアメリカの対ソ核戦略の最前線基地に変える方針を濃厚にし、他面では日本と西欧に貿易収支の改善(アメリカ製品の輸入拡大)を迫り、しかもアメリカ自身の大幅な財政・国際収支赤字を、日本・西欧からの資本収入によってまかなうというきわめて矛盾した政策をとったのには、このような世界政治経済情勢の根本的変化がある。
 カーター政権は、当初、こうした矛盾を解決しようとして、対ソ「デタント」の再構築、韓国からの地上軍撤兵、日欧資本吸収のための高金利政策の是正などを試みようとしたが、ドル価値の崩落と日欧通貨の急騰(1978~1979)、イラン危機(1978~1979)による第二次石油危機、ソ連軍のアフガニスタン介入(1979)などによって、カーター戦略は破綻(はたん)し、よりアメリカ中心主義的なレーガン政権の誕生(1981)を迎えることになる。
 レーガン政権期の日米関係は、1970年代に顕在化していた経済確執を中心とした日米関係が、より増大された形で発現されてきた時期とみることができる。日本の側からみれば、1980年代になって日本の産業能力の面ばかりでなく、金融力が飛躍的に巨大化して世界第2位となり、また前述の日米経済間の構造的矛盾がもはや逆転しがたいほど定着してしまった。アメリカの財政・国際収支の大幅赤字の相当部分は、日本からの資本輸出と対米投資によってまかなわれるようになった。防衛力の面では、ただ日本の自衛力増強だけでなく、アメリカの北西太平洋・オホーツク海における対ソ核戦略の構築に重要な一翼を担うものを要求し、これによってアメリカの対ソ核戦略の最前線基地としての日本の役割は高まった。レーガン政権二期目は、アメリカの対ソ農産物禁輸の解除(これによるアメリカ農業不況の緩和)、米ソ首脳会談の開催(1986、ジュネーブ)、軍縮交渉再開などによって、一面では対ソ緊張緩和の政策に出ようとし、日本政府もそれに従ってソ連ゴルバチョフ書記長の訪日を実現しようとするなど、若干の手直しは現れたものの、米ソおよび日米関係の大局的変化は現れなかった。[陸井三郎]

冷戦終結後の日米関係

1991年12月のソ連崩壊による冷戦構造の瓦解(がかい)は、世界情勢の激変に伴う日米関係の再編を迫る結果となった。日米にとっての仮想敵ソ連の瓦解後に現れたロシアは、日米両国にとって突然、協力ないし援助すべき隣国として出現し、1997年からは先進国首脳会議(サミット)へのロシアの正式参加を認めるに至った。しかし安保条約に基づく日米の政治的、軍事的同盟関係は、経済的対立の激化という要因を絶えずはらみながらも、冷戦終結後の新情勢のなかでかえって強化されつつある。1996年の橋本・クリントン首脳会談で発表された日米安全保障共同宣言(日米安保再定義)に応じて、日米防衛当局の「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)見直しが進行、「中間とりきめ」を経て、1997年9月23日新しい「日米防衛協力のための指針」(日米新ガイドライン)が合意された。従来の安保条約(1960)による定義では、日本と極東における「有事」に際して日本(および自衛隊)は独自に、またアメリカ軍の作戦に協力する、となっていたが「再定義」に基づく指針では、「周辺」の海・空・陸域において「有事」とアメリカ側が判断する事態が発生して、アメリカ軍が戦闘に入った場合には、日本はこれに自動的、全面的に協力することになる。これに先だつ湾岸戦争に際して、日本政府が国連軍ではないアメリカ軍主体の多国籍軍に協力こそしなかったが、停戦後にペルシア湾の機雷除去の作業に自衛隊の掃海艇を派遣したという事実は、「新ガイドライン」の前途を暗示していたようにもみえる。
 安保条約の「再定義」に基づく日米新ガイドラインは、条約の改定という形をとらなかったため、国民の注目を大きく浴びなかったものの、日本および日本周辺でのアメリカの軍事活動にいっそう大きい自由裁量権を与える結果になった。1999年5月24日に成立した「周辺事態法」は、日米新ガイドラインを実行するための法律であるが、同法について政府当局は、「周辺」とは特定の地域ないし海空域をさす地理的概念ではないと称した。しかし、実質的には、中国、台湾、南北朝鮮などの日本周辺諸国・地域・海空域の不測の事態に対応しようとしたものであることは明らかである。同法により、たとえば日本の港湾、空港、地方自治体施設などは、有事に際してアメリカ軍が優先的に自由に利用することができるようになった。冷戦の終結という状況のもとで、日本周辺の東アジアではかえって緊張が激化すると想定されているようである。[陸井三郎]
『高木八尺著『日米関係の研究』上下(1968、70・東京大学出版会) ▽山田浩著『戦後アメリカの世界政策と日本』(1967・法律文化社) ▽陸井三郎著『アメリカの権力――可能性と限界』(1976・すずさわ書店) ▽ジョイス・コルコ著、陸井三郎訳『世界資本主義の危機』上下(岩波新書)』

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世界大百科事典内の日米関係の言及

【アメリカ合衆国】より

…ただしアメリカは中国での門戸開放や中国領土保全のために他の大国と対決する考えがあったわけではなく,満州事変に際しても不承認政策をとったにとどまった。日中戦争が勃発し,日本の中国侵略が拡大するにつれて,日米関係は悪化したが,太平洋戦争に至る緊張の直接の引金となったのは,日独伊三国同盟の締結と日本の南方進出,それに対するアメリカの強硬な反発であった。 ナポレオン戦争から第1次大戦に至る1世紀の間,アメリカがヨーロッパの問題にほとんど注意を払うことなしに,自らの発展に専念することができたのは,ヨーロッパで相対的な平和が続いたからである。…

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