コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

岸信介 きし のぶすけ

百科事典マイペディアの解説

岸信介【きしのぶすけ】

政治家。山口県生れ。東大法科卒。1936年満州に渡り満州経済の軍事化を指導。1941年東条英機内閣の商工大臣。1942年衆議院議員。戦後,A級戦犯容疑で逮捕されたが不起訴。
→関連項目安倍晋三石橋湛山内閣鈴木俊一

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

岸信介 きし-のぶすけ

1896-1987 昭和時代の官僚,政治家。
明治29年11月13日生まれ。佐藤栄作の兄。昭和11年満州国実業部次長,16年東条内閣の商工相となり,戦時経済体制を推進。17年衆議院議員(当選10回)。20年A級戦犯容疑で拘留され,23年釈放。日本民主党,自民党の各幹事長をへて,32年首相。35年反対運動のなかで日米安保条約改定を強行して総辞職。その後も保守長老として隠然たる勢力をもちつづけた。昭和62年8月7日死去。90歳。山口県出身。東京帝大卒。旧姓は佐藤。
格言など】本当の幸福を実現するためには,政治の力こそ最大である

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

きしのぶすけ【岸信介】

1896‐1987(明治29‐昭和62)
政治家。山口県出身。佐藤家の出で父方の実家を継ぐ。佐藤栄作は実弟。東京帝大法学部卒。農商務省に入り,臨時産業合理局をへて,1935年工務局長。翌年,満州国実業部次長となり,37年より満州産業開発五ヵ年計画を推進。当時,東条英機星野直樹松岡洋右鮎川義介とともに,満州国を動かす〈2キ3スケ〉といわれた。39年帰国,商工次官。同年5月,8万5000人の朝鮮人労働者を日本に強制連行・強制労働させる計画を,厚生次官と連名で公表。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

大辞林 第三版の解説

きしのぶすけ【岸信介】

1896~1987) 政治家。山口県生まれ。東大卒。佐藤栄作の兄。東条内閣の商工相となり戦時経済体制を推進。戦後 A 級戦犯として逮捕。追放解除後、衆議院議員。1957年(昭和32)首相就任。60年国民的反対運動の中で新日米安保条約批准を強行。直後に総辞職。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

岸信介
きしのぶすけ

[生]1896.11.13. 山口
[没]1987.8.7. 東京
政治家。 1920年東京帝国大学法学部を卒業後,農商務省に入る。 1936年満州国実業部次長に転出。 1940年商工次官,1941年東条内閣の商工大臣に就任。 1942年衆議院議員。 1945年A級戦犯として逮捕されたが,1948年に釈放。その後親米派,保守党内タカ派として日本再建連盟を結成,政界に復帰する。 1953年自由党に入り衆議院議員に復帰。 1954年日本民主党幹事長として鳩山内閣を実現。保守合同では自由民主党幹事長。 1956年の自民党総裁選挙で石橋湛山に敗れたが,外務大臣に就任。 1957年石橋首相の病気退任後,岸内閣を組織。 1958年の警察官職務執行法,1960年の日米安全保障条約改定が国民の強い反対にあい,特に安保闘争 (→安保改定問題 ) は第2次世界大戦後最大の反政府運動となり,内閣総辞職。 1979年 10月の総選挙には立候補せず,第一線を退いたものの,後継者福田赳夫などを通じ,自民党右派の象徴的存在として影響力を行使し続けた。晩年は自主憲法やスパイ防止法の成立を目指した。 1979年国連平和賞受賞。佐藤栄作は実弟。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

岸信介
きしのぶすけ
(1896―1987)

政治家。山口県生まれ。佐藤栄作は実弟。旧制一高を経て1920年(大正9)東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。1931年(昭和6)商工省で重要産業統制法の立案・実施にあたり、以降革新官僚の頭目として軍部(統制派)との連携を強めた。1936年、工務局長を辞し「満州国」実業部次長として渡満、満州産業開発五か年計画を実施し、実際上の責任者として「満州国」の経済軍事化を推進した。帰国後、1940年商工次官。1941年東条英機(とうじょうひでき)内閣の商工大臣となり、太平洋戦争開戦の詔書に連署した。1942年翼賛選挙で当選し、政治基盤を獲得。1943年国務大臣兼軍需次官として戦時経済体制の実質的な最高指導者となった。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、1948年(昭和23)末釈放。1952年公職追放を解除され、日本再建連盟を結成。1953年3月自由党に入り、翌月の総選挙に当選し(山口2区)政界復帰。党内の憲法調査会長として憲法改正・再軍備を唱道した。1954年鳩山一郎(はとやまいちろう)らとともに自由党を除名され日本民主党結成に参加、幹事長となった。1955年保守合同後、自由民主党の幹事長。翌年総裁選で石橋湛山(いしばしたんざん)に敗れ、石橋内閣の外相に就任。1957年2月石橋首相の病気退陣により自民党総裁に選ばれ内閣を組織した。日米安全保障条約の改定を国民的な反対運動のなかで強行したため、1960年7月総辞職した。以後1979年まで衆議院議員。首相経験者として自民党最高顧問を務めた。状況変化に俊敏に対応し、変わり身が早く、情勢判断力・政治力にたけた典型的な官僚政治家とみなされている。[荒 敬]
『吉本重義著『岸信介伝』(1957・東洋書館) ▽岸信介他著『岸信介の回想』(1981・文芸春秋) ▽岸信介著『我が青春』(1983・広済堂出版) ▽『岸信介回顧録』(1983・広済堂出版) ▽高橋正則著『昭和の巨魁 岸信介と日米関係通史』(2000・三笠書房) ▽岩見隆夫著『岸信介 昭和の革命家』(学陽書房・人物文庫) ▽原彬久著『岸信介――権勢の政治家』(岩波新書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の岸信介の言及

【革新官僚】より

…内閣調査局時代から,企業の所有と経営の分離による公益的統制を主張して電力国家管理案を作成し,その実現に奔走した奥村喜和男(逓信省出身)の活動はその先駆をなすものであり,さらに40年後半の新体制論議のなかで,企画院案として提示された〈経済新体制確立要綱〉は,革新官僚の意図と方向を示すものとして注目を集めた。当時,革新官僚とは,岸信介商工次官,星野直樹企画院総裁ら,すでに満州国での経済統制の経験をもつ高級官僚と企画院の実務を担当している前記の奥村や,美濃部洋次(商工省出身),毛里英於菟(大蔵省出身),迫水久常(大蔵省出身)らの中堅官僚をひとまとめにした呼称として使われている。彼らによって作成・推進された〈経済新体制確立要綱〉は,企業の公共化,ナチス的な指導者原理の導入による統制機構の確立,利潤の制限などを骨子とするものであり,これらの要求が〈革新〉の名で呼ばれたのであった。…

【疑獄】より

…〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか否かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。この種の事件は多かれ少なかれ政・官・財界に波及するため,現在では政治問題化した利権関係事件の総称となっている。政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。…

【矢次一夫】より

…しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。著書に〈《昭和人物秘録》〉(1954),〈《この人々》〉(1958),〈《昭和動乱私史》〉(全3巻,1971‐73),〈《わが浪人外交を語る》〉(1973)などがある。…

※「岸信介」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

岸信介の関連キーワード嘉村礒多(1897~1933)吉田=アチソン交換公文山口県熊毛郡田布施町自由党憲法調査会長岸信介と社会保障政経不可分の原則日韓協力委員会田布施町郷土館佐藤市郎(2)憲法問題研究会安倍 晋太郎中村 三之丞所得倍増政策八木 宗十郎池田勇人内閣話し合い解散小沢 久太郎安倍晋太郎南条 徳男遠藤 三郎

今日のキーワード

いい夫婦の日

11月22日。通商産業省(現経済産業省)が制定。パートナーへの感謝の意を示し、絆を深める。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

岸信介の関連情報