岸和田城跡(読み)きしわだじようあと

日本歴史地名大系 「岸和田城跡」の解説

岸和田城跡
きしわだじようあと

[現在地名]岸和田市岸城町

本丸・二ノ丸・三ノ丸(三曲輪)と惣曲輪からなる臨海の平城で、総面積は約七万二千坪。別称をちぎり(千亀利)城というのは、本丸とその北西に接する二ノ丸の形が織機の滕に、あるいは縄張りの滕に似ているところから名付けられたという。府指定史跡。城地は現在、市庁舎・学校その他、この地方の政治・文化の中枢となっている。

建武―延元(一三三四―四〇)の頃、楠木正成に属した和田高家が岸和田に城を構えたのがその始まりというが、その位置や規模は明らかでない。南北朝合一後、この「岸和田古城」から現在地に城が移されたとも伝えるが(拾遺泉州志)、これも確かでない。応永一五年(一四〇八)和泉の下半国守護職は仁木義員から細川頼長に移ったが、細川系図の頼長の項に岸和田城主とあるので、当時の和泉下方守護所は岸和田城であったと思われる。その後細川氏に代わって三好氏が台頭すると、三好長慶の腹心十河一存・安宅冬康が岸和田に在城した(畠山記)。一存の死後当城に拠った三好実休(義賢)は、永禄五年(一五六二)畠山高政との久米田合戦で討死し(細川両家記)、以後織田信長の上洛までは松浦・寺田などの岸和田衆が在城した。信長入洛後当城には織田信張が配置されていたが(「宇野主水日記」天正一〇年正月二二日条)本能寺の変後の天正一一年(一五八三)豊臣秀吉は中村一氏を当城に配し(中村一氏記)、紀州攻略の前線基地とした。以後同一三年の紀州制圧まで、当城は根来衆雑賀衆との戦いの拠点として重要な役割を果し、当城をめぐる戦いは「中村一氏記」「真鍋真入斎書付」「真鍋真入斎働覚書」「宇野主水日記」(同一二年三月一八日条ほか)などに詳しい。その頃の城域は後の二ノ丸までで、しかも「矢倉・石垣等も無き、屋敷構へに堀をホリテ麁相ナル体」の掻上城であった(岸城古今記)

天正一三年四月の紀州制圧後、中村氏に代わって小出秀政が城主となり、築城の工を起こした。小出氏は初め四千石にすぎなかったが、文禄三年(一五九四)には一万石に、翌四年には三万石に加増され(拾遺泉州志)、同年天守閣の造立に着工し、慶長二年(一五九七)に至って竣工した(岸城古今記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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