日本大百科全書(ニッポニカ) 「島成郎」の意味・わかりやすい解説
島成郎
しましげお
(1931―2000)
社会運動家、精神科医。東京生まれ。1950年(昭和25)東京大学教養学部入学、同学部自治会副委員長としてレッド・パージ反対闘争を闘い無期停学処分となる。同年日本共産党入党、党中央分裂に際しては国際派に所属し除名となる。1952年「自己批判」して復党。1954年東大医学部に復学。1955年共産党の武装闘争や第六回全国協議会(六全協、分裂解消のための協議会)で解体状況にあった共産党東大細胞を生田浩二(いくたこうじ)(1933―1966)や森田実(1932―2023)と共同で再建。また1956年、同様に解体状況にあった全学連の再建を担う。砂川基地拡張反対闘争、原水爆実験禁止闘争を経て、1958年共産主義者同盟(ブント)を結成、書記長に選出される。ブントが目ざしたものは日本共産党にかわる「真に闘う前衛党」であり、新しい前衛党創成という点では歴史的な意味をもった。おもなスローガンは、マルクス・レーニン主義の復権、世界革命、プロレタリア独裁の実現で機関紙『戦旗』および『共産主義』発行。主要メンバーは島、生田のほかに、青木昌彦(1938―2015。筆名姫岡玲治(ひめおかれいじ))、富岡倍雄(ますお)(1929―1998)、片山迪夫(みちお)(1933― )、小泉修吉(1933―2014)、古賀康正(やすまさ)(1931― )らである。1958年勤評闘争(教員勤務評定導入反対闘争)、警職法(警察官職務執行法)反対闘争が「奇妙な勝利」(全学連の総括)で終わり、1959年日米安全保障条約改定阻止闘争が始まった。その過程でブントは全学連の主導権を確立して、全学連委員長に唐牛(かろうじ)健太郎が選出され、ブント=全学連は安保改定阻止闘争を1年間にわたって闘った。主要には「11・27国会構内大抗議集会」「1・16岸(信介、当時首相)渡米阻止羽田空港ロビー占拠闘争」「4・26国会前装甲車突破闘争」を「先駆的闘争」と位置づけて闘争を展開し、最終局面では「6・15国会構内突入闘争」(突入による警官との衝突で樺(かんば)美智子(1937―1960)が死亡)を成し遂げた。これが直接的な引き金になって、6月18日、日米安保条約阻止国民会議統一行動には全国580万名、国会デモには33万名が参加、「まるで、人が地下から湧き出るように国会周辺を埋め尽くした」という史上空前の闘争を実現して、アイク(アメリカ大統領アイゼンハワー)の訪日中止、岸内閣退陣に追い込んだ。島はブント=全学連主流派の闘争を最先端にたって牽引(けんいん)し、名実ともに60年安保ブントを人格的に体現した。しかしブントは60年安保闘争の直後に3分解して崩壊、島は「ブントの死は私の政治的死であった」(『ブント私史』1992)と語るように政治の表舞台から去った。
1961年学習塾開設。1964年東大医学部卒業後、同精神医学教室に進む。1967年国立武蔵療養所(現、国立精神・神経医療研究センター、東京都小平(こだいら)市)に赴任。1968年厚生省派遣医として沖縄県に移る。1971~1980年日本精神神経学会理事。臨床精神科医としても社会的発言を続けた。1972年より沖縄・宜野湾(ぎのわん)玉木病院に勤務するかたわら巡回診療を通じて地域精神医療に精力的に取り組んだ。心身を病んだ患者、地域社会で孤立した家族の苦しみ、悲しみ、喜びをすこしでも共有できるような「心の共振」のなかに医療の原点を求め、多くの医師たちとともに地域精神医療体制を模索し、その歩みを『精神医療ひとつの試み』(1982)として刊行、同書は沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。1985年東京陽和病院長。1988年『精神医療・沖縄十五年』を上梓(じょうし)した後、1990年(平成2)北海道・鶴居(つるい)村の養生邑(ようせいむら)病院名誉院長、北海道・苫小牧(とまこまい)市の植苗(うえなえ)病院副院長、1994年沖縄やんばるクリニック所長を歴任。1995年沖縄県知事功労賞受賞。
[蔵田計成]
『『精神医療・沖縄十五年――持続する地域活動を求めて』(1988・社会評論社)』▽『『ブント私史――青春の凝縮された生の日々ともに闘った友人たちへ』(1992・批評社)』▽『島成郎監修『ブント[共産主義者同盟]の思想』全7巻(1992~1999・批評社)』▽『『精神医療ひとつの試み』(1997・批評社)』▽『藤澤敏雄・中川善資編『追悼島成郎――地域精神医療の深淵へ…』(2001・批評社)』▽『島成郎記念文集刊行会編『ブント書記長島成郎を読む』『60年安保とブント(共産主義者同盟)を読む』(以上2002・情況出版)』