全日本学生自治会総連合の略称。第二次世界大戦後の日本の学生運動は、学園民主化闘争(1945~46)で復活し、大衆的な自治会運動として発展した。1948年(昭和23)9月、全国の145大学によって全学連が結成され、以降、党派的分裂を繰り返しながらも、日本の反体制運動や革新運動に欠くことのできない政治的、社会的な地位をもって多様な運動を幅広く組織した。しかし、60年代以降、四分五裂の状態となり、今日まで複数の全学連組織に分解して担われてきており、かつてのような力はなくなっている。
[似田貝香門]
全学連は結成以来、5.24ゼネスト、反レッド・パージ闘争、朝鮮戦争反対、全面講和運動などの歴史的な闘争を担ってきた。この時期からいわゆる六全協(1955年7月の日本共産党第6回全国協議会)までは日本共産党の強い影響下にあった。共産党は、学生運動の本質をもってプチブル層による民主主義運動とみなし、「民族民主統一戦線」の一翼を担うものと位置づけてきた。ところが、共産党の具体的な運動においては、1952年から53年の「火炎びん闘争」や山村工作隊の指導にみられるように、学生のなかの先進的部分を極左急進主義的行動に導いた結果、大衆学生との間にギャップを生み出した。ここから共産党の学生運動への対応は急に変化し、学生の日常的要求に密着した「日常闘争」を重視し、この路線は六全協の決議で頂点に達した。全学連の運動に対して、過剰な危機意識にとらわれ政治主義的偏向をもつプチブル急進主義という警告が行われ、従来の基調からすれば180度に近い路線転換を迫られた。その結果、全学連の中心的活動学生の間に激しい動揺が生まれ、一部は運動から離脱し、他の一部は共産党指導部と対立する方向を選択し、そこから相対的に自立化の道を歩んだ。
[似田貝香門]
六全協の打撃を受けたが、1956年、全学連は再建された。このとき全学連指導部が採用した立場は、「層としての学生運動」論であった。それは、社会変革運動のなかで学生の先進性を積極的に認め、さらに大衆を引っ張っていく牽引(けんいん)車の役割を課させようというものであった。戦後の社会変動によって、学生はその社会的存在としても運動の主体性の点でも、すでに層として独立性をもつと考え、そこから他の社会運動とは独自の立場をとり、そのうえで、学生としての特性を生かして「労学提携」によって平和と民主主義を実現しようというものであった。この立場は、すでに1950年代初頭から先進的な活動学生の間で主張されていたものであるが、六全協後の共産党との対立が顕在化するなかでふたたび前面に登場し、このころ、ようやく組織的萌芽(ほうが)をみせ始めた反日共系諸セクトによって部分的に批判を受けながらも、原則的には全学連主流派の公認基調となっていった。
このような立場から再建された全学連は、砂川基地拡張反対闘争、勤務評定反対闘争、原水爆実験反対闘争、警職法反対闘争を経て、1960年の日米安全保障条約改定反対闘争において、その激しさは頂点に達していった。
ところで、再建全学連は共産党中央の方針と対立する形で再建され、かつ1956年のソ連共産党第20回大会のスターリン批判やハンガリー動乱の影響もあって、徐々に主流派が反日共的立場をとった。58年には共産党を除名された学生活動家を中心に共産主義者同盟(ブンド)が結成され、このブンドによって学生運動が指導された。
[似田貝香門]
60年安保闘争の敗北後、その総括をめぐってブンドは解体し、以後、全学連は三つの全学連組織に分裂した。全国の大学自治会は、マルクス主義学生同盟革マル派(1961)、民主青年同盟(1964)、そして社会主義学生同盟・マルクス主義学生同盟中核派・社会主義青年同盟の三派による全学連(1966)に分裂し、相互に厳しい対立のなかで、1965年以降の学園闘争(早稲田(わせだ)大学、日本大学、東京大学など、68年ごろには全国の学園で闘争がみられた)や70年安保闘争、沖縄返還闘争などが展開された。
とくに注目されるのは、諸党派・セクトに分裂した学生運動は、相対立し、全国統一体としての戦線を組むことはできなかったが、1968~69年の全国の学園闘争は全学共闘会議(全共闘)という形態の闘争組織を生み出した。日大の学園民主化闘争や、医学部民主化に端を発する東大闘争はその典型である。この闘争組織は、参加者の主体性に重点を置き、運動が少数者によって支配されないように、大衆団交という討議方式で意思決定を行うものであった。そして、大学の個別の問題から出発して、反体制運動を志向しながら、ノンセクト・ラディカル(無党派過激学生)の指導のもとに、反日共系のほとんどのセクトも包摂される形で闘争が行われた。この闘争も69年に終焉(しゅうえん)し、70年安保闘争、沖縄返還闘争以降、全学連は学生運動の指導的位置にはなく、単なる自治会連合組織としての機能を担うに至っている。
[似田貝香門]
『高木正幸著『全学連と全共闘』(講談社現代新書)』
日本の学生組織の全国的連合体。1948年9月,全国145校によって結成された全日本学生自治会総連合の略称。かつて学生運動といえば,おもにこの各大学の自治会を単位とする学生の学内代議制民主主義組織の活動をいっており,したがってその総合体としての全学連は,学生運動の代名詞であった。第2次大戦前にも各大学に社会科学研究会などの連合体として1922年,学生連合会(略称学連,のちに学生社会科学連合会と改称)が結成されたが,それは左翼的学生による少数者運動にすぎなかった。これに対し,第2次大戦後,学生たちは学園の軍国主義一掃と戦争責任の追及をかかげ,戦犯教授・学長の追放,学生課の廃止,報国会・御用学友会組織の撤廃とともに,民主的自治組織,学生文化団体,新聞会など,〈自治的〉学生生活の建設をめざした。各大学で行われた学生自治会の建設は戦後の学生運動がめざした最大の成果であり,旧体制の復活を許さぬための学生の自治権確立という,高邁(こうまい)な理念に基づくものであった。この自治会の特徴は,戦前の学生組織が個人加盟制を基本としたのに対し,全学生の自動的全員加盟制をたてまえにした点にある。
全学連結成までには,まず早大など私学を中心とした全国組織化の動きがあった。マッカーサー占領軍最高司令官の禁止命令によって挫折した戦後最大規模の1947年二・一ストの前日,皇居前広場に早大を中心とする40校,2万9000人の学生が結集し,全関東連合学生大会が開かれた。その後,国立大学でも連合組織結成の動きが起こり,48,49年をピークとする戦後インフレーションの進行と,学生生活の窮乏化による授業料値上げ反対闘争の高まりが,その全国的統一組織化の動きを促進し,48年6月,全国官公立大学高専自治会連盟が結成された。そして,私学系の全国学生自治会連合関東支部も支援して,同月23~26日,全国113校,20万人という,戦後学生運動史上最大規模のストライキが行われた。この全国学園ストに力を得て,同年7月全国国公私立大学高専自治会代表者会議を開き,9月18日から3日間,東京第二師範,早大,東京商大と場所を移しながら開かれた大会で全学連の結成をみた。参加145校,傘下学生30万人。東大内に本部がおかれ,初代委員長は共産党東大細胞リーダーで,東大自治会委員長武井昭夫であった。
これ以後,学生運動は自治会,その連合体としての全学連という統一組織によって指導されることになるが,戦後一貫して学生運動を指導してきた共産党の,とくに六全協(1955)での戦術転換などへの反発をきっかけとした学生戦線の分裂から,共産党系と,革マル派,中核派など三派連合の三つの全学連時代(1963-68),さらに共産党系,革マル,中核,解放派の四つの全学連時代(1969年7月以降)に入り,各党派の主導権争いのなかで学生運動の母体としての自治会とその連合体の全学連の地位は,学生のなかでしだいに低下し,学生の意識の多様化とも相まって,結集力も闘争機能も喪失していった。
→学生運動
執筆者:高木 正幸
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全日本学生自治会総連合の略称。1948年(昭和23)9月,学生運動の全国的統一組織として全国145校の大学,高等専門学校の自治会により結成された。1960年安保闘争では,1958年に日本共産党から離脱した学生らにより誕生した新左翼系学生運動が全学連主流派を形成し,学生による反安保闘争を領導した。1960年代には内部抗争や再統合などを経て,全学連組織は左翼政党や新左翼グループなどの影響下に,日本共産党と関連の深い民主青年同盟系全学連と,新左翼の共産主義者同盟・社会主義学生同盟,革命的共産主義者同盟全国委員会・日本マルクス主義学生同盟(中核派),社会主義青年同盟(解放派)の3派からなるいわゆる三派系全学連,さらに革命的共産主義者同盟(革命的マルクス主義派)系全学連などに分裂し,60年代後半の学園闘争や街頭闘争などを中心的に担った。その後,三派系は中核派系全学連と,社学同と社青同(解放派)系両派による反帝全学連に二分裂し,70年安保闘争時には民青系,中核派系,社青同(解放派)とその学生団体である反帝国主義学生評議会系,革マル派系など四つの全学連が活動していた。現在でも,規模は大きく減退したが,これら四つの全学連が存続している。
著者: 伊藤公雄
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報
全日本学生自治会総連合の略称。学生自治会が加盟する中央組織。教育復興運動を通じ,1948年(昭和23)9月国公私立大など145校の参加により結成。初代委員長武井昭夫(てるお)。学生運動の中心に位置したが,一方で共産党の指導が活動を混迷させることも多く,安保闘争時には執行部を共産主義者同盟(ブント)が掌握。この過程で全学連の分裂は不可避となり,以後共産党系・革マル派系などの党派別組織という色彩を強めた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…アメリカの州立大学の管理方式に似ていることから〈大学理事会法案〉とも呼ばれた),国立大学授業料値上げ案などへの反対闘争を展開した学生は,48年6月全国113校・約20万人が参加するという大規模な全国学園ストを行った。このストが契機となって,9月に全国145校・30万人が参加する全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。このような状況に動揺した政府,文部省は,同年10月,学内での政治活動を禁止する次官通達を出し,大学管理のための理事会法案に代わる大学法案の国会提出をはかったが,全学連側のストなどによる全国的な反対運動によって,政府側はついにその上程をあきらめた。…
※「全学連」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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