第2次大戦後,連合国(中心はアメリカ)の対日占領下で行われた〈経済民主化〉政策の一環で,農地改革,労働運動の解放とともに三大経済改革の一つである。戦前帝国主義下の日本の産業組織において,支配的資本としての金融資本(独占資本)は,財閥--家産を基礎とした持株会社がさまざまな産業部門に子会社,孫会社を擁して持株支配を行う日本独特のコンツェルン組織として存在していた。アメリカは,この財閥の制度的特質を農業における地主制とともに日本軍国主義の制度的手段となったとみなし,1945年8月29日付政府文書〈降伏後における米国の初期の対日方針〉および同年11月1日付統合参謀本部のマッカーサーあて文書で,その〈解体の促進〉を指示した。解体は11月以降,GHQの指令あるいは日本側の〈自主的〉立案をGHQが承認する形で,46年5月に設立された持株会社整理委員会を執行機関として実施された。財閥解体の内容は,(1)持株会社の解体,(2)財閥家族の企業支配力の排除,(3)株式所有の分散化,の三つの柱からなりたっていた。(1)は46年9月以降47年9月までに5次にわたり83社が持株会社に指定され,三井,三菱,住友,安田の各本社など財閥本社ないし本社的性格のもの28社は解散,重要な生産部門を有するもの51社は集中排除法による分割その他の措置をうけたもの9社を含めて,所有子会社株式を持株整理委に譲渡したうえで再建整備の措置がとられた。残る4社のうち三井物産と三菱商事の2社は,47年7月のGHQ覚書により解散,国際電気通信,日本電信電話工事の2社は国家管理(のちの電電公社)への移行の手段として解体された。なおこの過程で,財閥商社が徹底的に解体され,その後継会社にもきびしい制限が付された反面,銀行をはじめとする金融機関に手がつけられなかったことは注目に値する。(2)の財閥家族の企業支配力排除は,46年6月GHQ指令により十大財閥(前記四大財閥のほか,日産,大倉,古河,浅野,富士産業,野村を加える)家族56名が指定され,大蔵省による資産管理が行われていたが,47年3月持株整理委が新たな基準で56名を指定し,財産税物納分などを除くその所有有価証券が持株整理委に譲渡された。また指定者は会社役員への就任が原則として禁止され,また財閥家族以外の旧財閥系企業役員も,48年1月制定の財閥同族支配力排除法によって同一財閥系企業からの追放措置がとられた。(3)の株式所有の分散化は,いわゆる〈証券民主化〉を目的としたものである。上記(1)(2)の措置により持株整理委に譲渡された有価証券は,株式だけで1億6567万株,75億7166万円にのぼり,当時の日本の総発行株式金額の42%を占めていた。これは持株整理委により,財閥家族や財閥系企業を除き,当該株式発行会社の従業員,同会社工場所在地住民に優先して売却された。以上のほか,財閥解体に関連して,48年9月持株整理委は三大財閥傘下企業711社に対し,三井,三菱,住友の商号および〈イゲタ三〉〈スリー・ダイヤ〉〈イゲタ〉の商標の変更と51年7月以降7年間の使用禁止を指示した。これにより金融機関のほとんどおよび一部事業会社は社名を変更したが,占領政策の転換に伴い完全実施に至らぬまま講和条約発効による政令廃止となった。
以上が狭義の財閥解体の経過と概要であり,それはほぼ占領政策のねらいどおり実現されたといってよい。しかし,財閥解体を広義にとり,並行して進められた集中排除政策を含めて理解すると,様相は多少異なる。47年7月将来における財閥の復活を阻止する目的で独占禁止法(4月14日公布)が施行されたが,初期占領政策には,財閥という独占の特殊日本的形態の解体にとどまらず,独占的大企業の分割を意図した集中排除政策が含まれていた。これは,当時アメリカ政府およびGHQに力をもっていたニューディール派の影響によるものといわれる。それは国務・陸軍・海軍省調整委員会(SWNCC)302-2号文書(1947年1月22日付)で示され,極東委員会(FEC)に提出(FEC230号文書)された。これには狭義の財閥解体の場合と異なり,日本の産業界が公然と反対したが,GHQの強い指示により,国会は原案の頭に〈過度〉の2字を加えた過度経済力集中排除法(47年12月18日公布)を制定した。これに基づき,同法による実務を担当することとなった持株整理委は,48年2月中に鉱工業,商業,サービス部門の大企業のすべてを網羅した325社を適用企業に指定した。しかし,この間アメリカ本国では国防総省を中心に対日政策転換の動きが強まり,《ニューズ・ウィーク》47年12月1日号に掲載されたJ.L.カウフマン論文をきっかけに,議会をまきこんだ批判が相次いだ。48年3月12日国務省はマッカーサーに〈アメリカはFEC230号文書の支持を撤回する〉旨通知し,GHQはこれをうけて指定解除の方針をうちだすとともに,5月にアメリカから来日した集中排除審査委員会(通称,五人委員会)の手によって大部分の指定が解除された。最終的に指定をみたのはわずか18社であり,実際に企業分割が行われたのは,大建産業,大日本麦酒,三菱重工業,日本製鉄,王子製紙,井華鉱業,東洋製缶,三菱鉱業,三井鉱山,帝国繊維,北海道酪農協同の11社にすぎなかった。集中排除政策がこのように竜頭蛇尾に終わったのは,直接には占領政策の転換によるものであるが,そもそも現代の資本主義のもとで,19世紀的な自由競争秩序を再現しようという試み自体が時代錯誤であったことによる。49年に入ると原則的独占禁止主義に立脚した独占禁止法の改正論が高まり,同年6月18日には独占の弊害規制主義に立脚した同法の緩和の方向での改正が実施された。これによって,解体後の旧財閥系企業による,企業集団(企業グループ)という新しい形態での独占の復活が開始されるのである。
→財閥 →対日占領政策
執筆者:柴垣 和夫
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農地改革や労使関係の改革とともに、連合国の戦後対日占領政策の主柱をなすものであり、その目的は、日本の非軍事化を実現するために、軍国主義の経済的基盤とみられた財閥を取り除くことであった。こうした方針は、すでに日本の敗戦の1年前ごろから検討されていたが、敗戦直後の1945年(昭和20)9月に発表された「降伏後における米国の初期の対日方針」のなかで、「日本の商工業の大部分を支配する産業と金融の大コンビネーションの解体」として打ち出された。財閥解体をほとんど予想していなかった日本の財界は大きな衝撃を受け、財閥側は解体に抵抗し、自主的改革を通じて解体を回避しようとしたが、占領軍は承認しなかった。占領軍の基本方針は、財閥の持株会社を解散させるとともに、財閥家族の持株を放出させ、会社役員からも追放して、彼らの企業支配力を奪うことであり、四大財閥(三井、三菱(みつびし)、住友、安田)本社解体、中小財閥の解体、兼任重役制と法人持株による企業支配の解体、独占禁止法制定などの計画提出が日本政府に指示された。ついで11月には制限会社令が公布され、解体逃れの動きが封じ込められた。
解体作業は、1946年8月に発足した持株会社整理委員会により執行され、47年9月までに5回に分けて83社が持株会社の指定を受けた。四大財閥の本社のほか、浅野、大倉、野村、片倉など中小財閥の本社は解散させられ、川崎重工業、古河鉱業(現古河機械金属)など現業部門をもつ持株会社は、持株を処分したうえで、企業再建整備法による再建計画を作成することになった。持株など有価証券は、持株会社整理委員会の手に委譲されたのち、一般に売却され、ここに財閥の中枢機関は消滅した。同時に、財閥の人的支配の排除が進められ、財閥家族として指定された56人に対し、持株の処分やいっさいの会社役員の地位を去ることが命ぜられた。並行して、戦争協力者の公職追放も実施され、大企業を中心に約1500人の財界人が役員から退陣し、諸企業の経営陣は一新されていった。
こうして推進された財閥解体政策は、その実施過程で、アメリカ政府や占領軍内部で勢力のあったニューディーラーの反独占政策の理念の影響を強く受けて、持株会社の解体からさらに進んで大企業の分割を求める集中排除政策にまで発展していった。占領軍の集中排除政策に対する積極的姿勢は、当時企業分割案を検討中であった三井物産、三菱商事に対して、徹底的解散を指令したことにも現れていた。そして、1947年12月過度経済力集中排除法が公布され、翌年2月には鉱工業257社、配給・サービス業68社が過度の経済力集中として指定された。これらの企業の分割が実施されると日本経済は大混乱に陥るおそれがあったが、おりから米ソ冷戦の進行とともに、アメリカ政府は対日政策を非軍事化から経済自立の促進に転換し、賠償や集中排除政策の緩和を打ち出した。結局、日本製鉄、三菱重工業など18社が集中排除の対象とされ、企業分割が適用されたのは11社にとどまり、集中排除政策は骨抜きになった。こうして49年ごろまでに財閥解体措置はほぼ完了した。
その後、占領の終結とともに、財閥解体で手が触れられなかった銀行を中心に旧財閥系企業集団が形成されたが、家族・同族の支配が復活することはなかった。財閥解体は経営者の若返りと競争的産業体制を実現し、戦後の日本企業の革新的企業活動の前提条件をつくったといえる。
[中村青志]
『持株会社整理委員会編・刊『日本財閥とその解体』上下(1951)』▽『E・M・ハードレー著、小原敬士・有賀美智子監訳『日本財閥の解体と再編成』(1973・東洋経済新報社)』
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第2次大戦後アメリカ政府の指令で実施された日本の非軍国主義化,民主化措置の一つ。日本政府はGHQの指導のもと,1945年(昭和20)11月会社解散制限令を公布し,財閥・大企業の資産凍結を図る一方,46年8月解体の実施機関である持株会社整理委員会を発足させた。結局は財閥本社83社を持株会社と指定し,委員会の管理下にその所有有価証券を売却処分し,財閥本社の解散と財閥家族による企業支配力の排除を徹底的に行った。また過度経済力集中排除法による大企業の分割・再編にも着手したが,これは占領政策の転換から不徹底のうちに終了。51年7月政府は財閥解体の完了を宣言した。
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…アメリカ占領軍の初期の対日政策の基本方針は,〈降伏後における米国の初期対日方針〉(1945年9月発表)に示されているように,日本が再びアメリカの脅威とならないための非軍事化と,そのアメリカの目的を将来にわたって保障するための民主化とにおかれた。この方針のもとに占領直後から1947年にかけて,軍隊の解体,軍工廠の管理,教育の自由主義化,労働者の団結権の保障等々の旧秩序の民主主義的変革と,財閥解体,農地改革等の経済民主化とがつぎつぎと実行に移された。しかし,ヨーロッパ情勢の緊迫からアメリカの世界政策が〈冷戦の論理〉を明確にし(1947年3月,トルーマン・ドクトリン),中国革命の進展に伴う東アジアの革命的情勢の進展につれて,47年から48年にかけてアメリカの対日政策は,非軍事化=民主化を基調とする政策から,日本に〈反共の防壁〉としての役割を期待する経済自立化政策へ転換をとげていった(1948年1月,ローヤル陸軍長官声明)。…
※「財閥解体」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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