川平村
かびいらむら
[現在地名]石垣市川平
崎枝村の東に位置し、東シナ海に面する。嘉平・加平とも表記し、カビィラとよばれた。L字形の村域の東部に小村仲筋村があり、東は荒川を境として桴海村。南部は於茂登岳(五二五・八メートル)を中心とした山地で、尾根を境に名蔵村と接する。半島状に突出した西部に本村の川平村がある。半島先端の川平石崎は正保国絵図に「磯城崎」とみえ、北方約一五〇メートルの海上に平離島・タカバナリ島などの岩礁群がある。半島西側は崎枝湾に面し、北半部には川平石崎と南のアザナ崎に囲まれた底地浜がある。東側は川平湾が深く湾入し、湾口西岸の緩傾斜面に集落がある。集落はアーラ御嶽の西側を俗に上の村(ウイヌムラ)、東側を下の村(シィムヌムラ)とよぶ。半島南部にある前嵩(二六三・二メートル)は円錐形の山容を呈し、節祭にマヤヌ神が唱える「まーゆんがなしぃの神詞」には集落を背後から守る山と位置付けられている。前嵩の北に仲間岡・獅子岡という小丘が並立し、一帯が川平貝塚となっている。伝承によれば、集落発祥の地は仲間岡南麓の群星御嶽を中心とした仲間村で、その北に大口、東に仲栄・多田・古場川(久場川)・西・慶田城・玉得・大津原(内原)の小村があったという。しかし康熙二三年(一六八四)に来島した久米村(現那覇市)の風水師外間親雲上の鑑定に従い、同二五年から仲間・大口・仲栄・多田の四村は古場川・大津原両村へ漸次移住した(八重山島年来記)。その後一九〇九年(明治四二年)までに西・慶田城・玉得三村も移転し、川平村は古場川(上の村)・大津原(下の村)の二集落となった。古場川は仲間村の草分の家とされるムトゥヌフヤン(元の大親)がすべて移転してきたため親村と称される(川平村の歴史)。
弘治一三年(一五〇〇)のオヤケアカハチ事件の頃、川平の仲間村に満慶山英極がいて勢力を張っていたが、アカハチに従わなかったため殺され、その後遺子八人は王府により首里大屋子に任じられたという(山陽姓大宗家家譜など)。底地浜の南にあるヤドゥピキャとよばれる自然洞窟は満慶山の墓と伝える。万暦二九年(一六〇一)川平村の石垣親雲上が頭職となったが、彼の長男が八重山キリシタン事件の当事者として処刑された石垣永将(本宮良)である(→富崎)。両島絵図帳に川平村とみえ、石垣島北東部に設定されていた川平間切の主邑で、高一六四石余。崇禎元年(一六二八)の三間切制により宮良間切に属し、この頃には崎枝村を小村として管轄していたとみられる。
川平村
かわひらむら
[現在地名]野津町吉田 川平・町部
一木村の南西、北西流する三重川支流吉田川北東岸にある。南東対岸は尾原村。臼杵・岡城路が北東から南西へ通る。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には河平村が一木村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高八二石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方四七石余・畑方三五石余。正保郷帳では野津之院に属し、高一四五石余(田方八六石余・畑方五八石余)には吉岡村分も含まれる。江戸時代後期の免は七ツ八分(「雑録」臼杵藩政史料)。文政六年(一八二三)には吉岡組に属した(万用集)。
川平村
かびらむら
[現在地名]伊江村川平
伊江島の南部に位置し、南は海に臨む。地内の具志浜(現伊江港)は船着場として用いられた。川平を地元ではハンジャともいう。ハンジャは井戸の意のハーと下の意のシャーに由来するともいうが(伊江村史)、定かではなく、ハンジャに川平の字が当てられた由来についても諸説がある。地内に御嶽はなく、東江村・西江村より後に開発された村と考えられている(同書)。宝永五年(一七〇八)の諸地頭地作得帳写(伊江村史)に「川平里主」、「琉球国由来記」に「川平掟」など、村名につながる役職名がみえ、「琉球国旧記」に「川平邑」とある。一八〇〇年の手札改時の人数は男が一〇五人。
川平村
かわひらむら
[現在地名]杵築市岩谷
杵築城下より北方の鴨川に沿って山道を登ると、川の東は高い急斜面の上に国東郡岩屋村があり、川の西は谷底となって当村がある。山の急斜面の東側に住居を建て、はるかに続く段々畑を耕作する。小倉藩慶長人畜改帳では木付上庄に属し、家数四・人数一二(うち本百姓一)、牛二とある。小倉藩元和人畜改帳では高二四石余、家数二・人数九(うち本百姓二)、牛一。正保郷帳では八坂庄の上庄村のうちに含まれている。元禄郷帳では高一八石余。
川平村
かわひらむら
[現在地名]馬路村馬路 川平
中ノ川村の北に位置し、中ノ川の最上流域の川平と、その支流域の宿ノ谷集落よりなる。源平合戦の頃、川平兵衛守平義貞なる者がこの地に家臣を連れて落居したという伝説がある。天正一五年(一五八七)の安田庄地検帳では東川村分に含まれるが、東川村の名本は川平にいたらしく「川平名本ヤシキ」一五代が記される。「シクノ谷」の地名もすでに同帳にみえる。
江戸時代の本田高は元禄郷帳に六・一七三石とあるが、新田高は付近六村が一括記載されるため不明。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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