川除村(読み)かわよけむら

日本歴史地名大系 「川除村」の解説

川除村
かわよけむら

[現在地名]三田市川除・ともおか

三輪みわ村の西、武庫むこ川両岸の平坦地に立地する。同川左岸に直角に延びた屋根先の低丘は自然堤防となり、下流域の浸水防除の役目を果している。丹波播磨への街道が通る。慶長国絵図には丹波への街道を挟み二つの川除村が並記され、二村で高五七二石余。正保郷帳では高七二〇石。天保郷帳では高七四〇石余。古くは川防村と記され、武庫川が右に左に曲がりくねった地に位置したため、洪水時に堤がたびたび切れて被害を受けていたが、行基が川の流れを緩やかに改修し堤を造った。水害の被害を受けない良田になって川除村と改められたとの行基伝承を伝える。享和二年(一八〇二)の菱屋平七長崎紀行(京都大学文学部蔵)に、大原おおはら村から一〇余町で川除村、「人家一〇軒計、茶屋あり、三―四町行バ三輪町」とある。

川除村
かわよけむら

[現在地名]藤岡市川除

神流かんな川が東境を北流し、東は武蔵国賀美かみ小浜こばま村・肥土ひど(現埼玉県児玉郡神川村)、南から西にかけて牛田うした村、北は本郷ほんごう村に接する。村央を十石じつこく街道が南北に通る。天文一九年(一五五〇)三月一九日に用土佐衛門尉に与えられた地に「高山知行内神田川(除)けの郷」があり(北条氏康判物写「管窺武鑑」所収)、天正一〇年(一五八二)六月、高山重正に「川除」五〇貫が与えられている(滝川一益判物写「高山系図」所収)。寛文郷帳では田方一五七石八斗余・畑方二二石四斗余、前橋藩領。その後上里見藩(のち小幡藩)領となり、明和二年(一七六五)の領知村高書上(松浦文書)に高一八五石余とある。

川除村
かわよけむら

[現在地名]木造町川除

東の岩木川対岸に赤堀あかぼり(現五所川原市)、北は豊田とよた村、南は蘆屋あしや村に続き、田圃を隔てて西に蘆沼あしぬま村。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。享保一二年(一七二七)広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて五七町一畝六歩、村高三五〇・〇二五石であった。うち田方は四三町四反四畝二六歩で三二八・一八六石、上田から下々田まで設定され、中田が一一町三反五畝歩、下田が一八町二反六畝二六歩、一二七・八七九石とあり、畑方は一三町五反六畝一〇歩で二一・八三九石、下畑と下々畑のみで、下々畑が一〇町八反三畝三歩、一〇・八三三石とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android