中国の作家。本名は李尭棠(りぎょうとう)。字(あざな)は芾甘(はいかん)。筆名はほかに欧陽鏡容(おうようきょうよう)、王文慧(おうぶんけい)、比金(ひきん)、余一(よいち)、余三(よさん)など多数。四川(しせん/スーチョワン)省成都の大官僚地主の家に生まれる。五・四運動(1919)に始まる文化革命期に新しい思潮の洗礼を受け、封建的地主である生家に批判的な目を向けるようになった。1923年以来、上海(シャンハイ)、南京(ナンキン)に遊学、26年北京(ペキン)大学進学を志したが病気のため断念した。受験のため半月間北京に滞在したが、このときに魯迅(ろじん/ルーシュン)の『吶喊(とっかん)』を熟読、文学に開眼した。27年から1年間パリに留学。アナキストと交流をもち、サッコ‐バンゼッティ事件に際しては、その救援運動に参加したりした。この間に処女作となった中編『滅亡』(1929)を執筆。アナキスト青年の恋と死をテーマとしたこの作品によって一躍名を知られるようになった。巴金という筆名は、滞仏中に翻訳した『倫理学の起源と発展』(上)の作者克魯泡特金(クロポトキン)と、同地で自殺した巴恩波(パーエンポー)という留学生仲間を記念してつけたものという。
帰国後、生家をモデルとした『家』(1931)を発表。新しい時代の波のなかで崩壊していく封建的大家庭の姿を如実に描き出したこの作品は、なお封建的桎梏(しっこく)のもとにあった当時の青年たちに大きな影響を与えた。その後、『春』(1938)、『秋』(1940)と書き継いで『激流三部作』と名づけたこの大長編を完成させた。さらに1944年にはその後日物語といえる中編『憩園(けいえん)』を書き、45年には嫁と姑(しゅうとめ)の確執、その間にたって悩むインテリの姿を描いた『寒夜(かんや)』を書いて、家の問題を追究し続けた。1930年代、彼が左翼からアナキストと批判された際、魯迅が「巴金は情熱的、進歩的作家であり、屈指の好作家の一人である」と弁護したことはよく知られている。1934年11月から35年8月まで、黎徳瑞(れいとくずい)の名で来日、横浜・東京に滞在して日本語を学んだ。
新中国成立後は、中国作家協会副主席(1984年に同主席)に就任、雑誌『文芸月報』『収穫』編集長として青年作家の育成に当たる一方、主として随筆、ルポルタージュの方面で健筆をふるった。66~77年のいわゆる「文化大革命」時期にはブルジョア作家として厳しい批判と迫害を受けたが、77年に名誉を回復、執筆活動を再開した。『創作回想録』(1981)、『随想録』全5集(1979~86)はその成果で、とくに後者(第5集『無題集』)に収められた『「文革」博物館』(1986)は「文革」という悲惨な教訓を子々孫々に伝え、この悲劇を「二度と繰り返させない」という決意を述べ、そのための「文革」博物館の設立を提唱したもので、世界の注目を集めた。
文革以前の1961、62、63年に中国作家代表団長として来日、文革後も1980、81、84年に作家代表団長、第47回国際ペンクラブ大会中国代表団長(1980年、中国ペンクラブ初代会長に就任)として来日した。1958年に始まる『巴金全集』全26巻は94年に完結した。
[立間祥介]
『立間祥介訳『寒夜』(『集英社版世界文学全集72』所収・1978・集英社)』▽『石上韶訳『巴金随想録』(1982・筑摩書房)』▽『石上韶訳『無題集』(1988・筑摩書房)』▽『山口守訳『リラの花散る頃――巴金短篇集』(1991・JICC出版局)』▽『岡崎俊夫訳『憩園』(岩波新書)』▽『飯塚朗訳『家』(岩波文庫)』
現代中国の作家。本名は李芾甘(りふつかん)。四川省成都の大官僚地主の家庭の生れ。五・四運動に思想的影響を受けるなかでフランスに留学。帰国後,革命と愛に苦悩する青年を主人公とした長編《滅亡》(1929)を発表して文壇に登場。以後,封建社会の暗黒を暴露し人間性の解放を訴えた《家》(1933)をはじめとする《春》《秋》の《激流三部曲》,また《愛情三部曲》《憩園》《寒夜》など多数の長編を発表したが,それらは弱者への愛と不合理な権力への怒りに貫かれている。新中国成立後は,中国作家協会副主席など文芸界の要職につくかたわら,原水禁運動など平和運動でも国際的に活躍した。文化大革命で迫害されたが,〈四人組〉追放後は短編やエッセーで健筆をふるうとともに,中国作家協会主席その他文壇の指導的役割をはたした。《巴金文集》14巻(1958-62)には,1946年までの全作品を収録するが,50種をこえる翻訳の仕事もある。
執筆者:吉田 富夫
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1904~2005
中国現代の作家。四川省成都の人。巴はバクーニン,金はクロポトキンからとったといわれる。五・四運動の影響を受けパリで苦学。大家族の崩壊を描いた『家』『春』『秋』の「激流三部作」で不動の地位を築いた。初期の作品にはアナーキズムの色彩が濃い。中華人民共和国成立後は中国作家協会副主席を務めた。文化大革命で批判されるが77年に復活,中国文壇の重鎮となった。
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…魯迅も,中国の児童文学の発展のために外国の作品を翻訳し,また民話・古典など民族の文化遺産の生かし方に指導的な役割を果たした。その後,林蘭(りんらん)の名による民話の収集整理,老舎の長編《小坡の誕生日》(1930)をはじめ,巴金(はきん),謝冰心(しやひようしん),茅盾(ぼうじゆん),張天翼(ちようてんよく)らの創造活動によって前進をとげた児童文学は,中華人民共和国の成立後,国家的事業として飛躍的に発展しつつある。 新中国の児童文学を代表する張天翼の小説《羅文応の話》(1954),秦兆陽(しんちようよう)の童話《ツバメの大旅行》(1950),そのほか詩,劇,伝記,科学読物などさまざまなジャンルにわたって,革命後の成果が1954年の国際子どもデーに表彰された。…
…当初の主編者は茅盾(ぼうじゆん)。特集や増刊号も刊行し,とくにロシア,東欧などの外国文学の翻訳紹介と国内の新文学作品の批評に力を注ぎ,また老舎や巴金など新人作家を世に送り出すなど,新文学運動に大きな役割を果たした。32年,上海事変により廃刊のやむなきにいたった。…
…しかし,こうした左翼文学運動には党員のセクト的傾向が終始つきまとい,いわゆる〈自由人〉や〈第三種人〉を標榜するリベラルな文学者をおしなべて〈敵〉として攻撃・排除したことで,みずから戦線を狭くしていったことも認めなければならない。 この時期はまた,茅盾(ぼうじゆん),老舎,巴金,丁玲,曹禺など,のちの中国文学を担う文学者たちが,つぎつぎと世に出た時代であった。なかでも茅盾《子夜》(1931),巴金《家》(1930),李劼人(りかつじん)《死水微瀾》,老舎《駱駝の祥子》(1937)などは,中国文学が世界に通用する本格的ロマンを持ち始めたことを示した。…
※「巴金」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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