常福院(読み)じようふくいん

日本歴史地名大系 「常福院」の解説

常福院
じようふくいん

[現在地名]青森市横内 亀井

横内よこうち集落南部、横内川左岸の亀井かめいにある。境内は横内城跡といわれる。朝日山と号し、真言宗智山派。本尊大日如来、もと弘前最勝さいしよう院末寺。

縁起によれば、推古天皇の代に円智の開基により、初め阿津摩嶽(東岳)定額寺大日坊と称したという。その後幾度かの変転があり、永禄五年(一五六二)この地に移って最勝院の眼尊を開山としたという。諸説があるが、天正一三年(一五八五)三代横内城主堤弾正が大浦(津軽)為信に討たれ、妻朝日御前が常福尼となり、草庵を結んで朝日山安養寺常福院と称したという説が信憑性が強い。常福尼を天文二三年(一五五四)桜庭さくらば(岩手県九戸郡)で戦死した初代堤弾正の室とする説もあるが、年代が合わない。


常福院
じようふくいん

[現在地名]福井市宝永二丁目

近世の福井城下鷹匠たかじよう町の北西部にある。光明山と号し、真言宗智山派。本尊不動明王。もと不動院と号し、慶長六年(一六〇一)結城ゆうき(現茨城県結城市)より移転したという。結城城の鬼門にあたる笹川ささがわの地にあったので、北庄きたのしよう(現福井市)でも城の鬼門にあたる平岡ひらおか山に移され、福井藩主の祈願所となったが、寛永三年(一六二六)郭内の現在地に移転した。


常福院
じようふくいん

[現在地名]新鶴村新屋敷

新屋敷しんやしき集落中ほどにあり、若宮山と号し、真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。開基は不詳だが、慶長二年(一五九七)下野国より実順が来て再興したという。集落北方の田子たご原の杉木立の中に田子薬師堂があり、当寺の管理下にある。建久八年(一一九七)田子道宥という地頭宿願により堂を草創し、李の木で薬師像を彫刻して安置したので、李薬師・田子薬師として信仰されたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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