コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

平教経 たいらののりつね

6件 の用語解説(平教経の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平教経
たいらののりつね

[生]永暦1(1160).京都
[没]文治1(1185).3.24. 長門,壇ノ浦
平安時代末期の武将。能登守,正五位下。中納言教盛の子。初名,国盛。源平の合戦 (→治承の内乱 ) では,水島,一ノ谷,屋島などで奮戦,源氏の軍勢を悩ませた。壇ノ浦の合戦では,源義経と勝敗を決しようとして,義経の軍船を捜し求めて進んだが,義経が逃れたため,敵兵を小脇にかかえたまま入水した。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

たいら‐の‐のりつね〔たひら‐〕【平教経】

[1160~1185]平安末期の武将。教盛の子。能登守。勇猛で、源義仲の軍を水島に破り、屋島の戦いでは佐藤継信を射殺。壇ノ浦の戦い源義経を取り逃がして入水。

出典|小学館
デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

平教経【たいらののりつね】

平安末期の武将。生没年不詳。清盛の弟教盛の子。能登守(のとのかみ)。性勇猛,源平の戦に歴戦したが,壇ノ浦の戦では源義経を捕らえようとして失敗,源氏の武士2人を抱いて入水(じゅすい)したといわれる。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平教経 たいらの-のりつね

1160-1185 平安時代後期の武将。
永暦(えいりゃく)元年生まれ。平教盛の子。治承(じしょう)3年能登守(のとのかみ),養和元年北陸道追討副将軍となる。寿永2年一門とともに都落ちして各地を転戦。元暦(げんりゃく)2年3月24日壇ノ浦の戦いで,源義経を追いまわしたがにげられ,源氏の武士ふたりを両脇にかかえて入水したとつたえられる。26歳。初名は国盛。

出典|講談社
デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

平教経

生年:生没年不詳
平安末期の武将。平清盛の弟教盛の次男。母は藤原資憲の娘。もと国盛。仁安1(1166)年伯耆守から民部 権大輔,治承3(1179)年能登守。このころ教経に改名。養和1(1181)年北陸道追討副将軍となる。寿永2(1183)年の平家都落ち以後,一門きっての剛勇の士として知られた。備中水島で源氏を破り,淡路に源義嗣,義久を討ち,伊予の河野通信,紀伊に園部忠康を下し,豊後の緒方惟義,臼杵惟隆を追い落とすなど活躍。『吾妻鏡』では一の谷の戦(1184)で安田義定に討たれ,獄門に懸けられたとするが,『玉葉』はこの首は偽物で教経は生存の風聞を伝え,『醍醐寺雑事記』では文治1(1185)年3月24日壇の浦で自害,時に26歳という。宿敵源義経を追いつめ「義経の八艘飛び」の説話や,阿波(徳島県)祖谷の平家落人部落は国盛の土着と伝える。<参考文献>安田元久『平家の群像』,角田文衛『平家後抄』

(正木喜三郎)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
朝日日本歴史人物事典について | 情報

大辞林 第三版の解説

たいらののりつね【平教経】

1160~1185) 平安末期の武将。教盛の子。能登守。屋島の戦いで佐藤継信を射殺し、壇浦の戦いでは義経を追いつめたが捕らえそこね、源氏の武士二人をかき抱いて入水した。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

平教経の関連キーワード永暦源光保岩手でのリンドウの生産千里ニュータウンエアリエル永暦城南寺蛭ヶ島平治源義朝

今日のキーワード

エンゲルの法則

家計の総消費支出に占める飲食費の割合 (エンゲル係数 Engel coefficientと呼ぶ) は,所得水準が高く,したがって総消費支出が大きいほど低下するというもの。エンゲル係数は国民の消費生活面...

続きを読む

コトバンク for iPhone

平教経の関連情報