デジタル大辞泉 「平教経」の意味・読み・例文・類語 たいら‐の‐のりつね〔たひら‐〕【平教経】 [1160~1185]平安末期の武将。教盛の子。能登守。勇猛で、源義仲の軍を水島に破り、屋島の戦いでは佐藤継信を射殺。壇ノ浦の戦いで源義経を取り逃がして入水。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「平教経」の意味・読み・例文・類語 たいら‐の‐のりつね【平教経】 平安末期の武将。教盛の子。能登守。寿永二年(一一八三)義仲を水島に破ったのを初め、各所で奮戦して勇名をあげた。一ノ谷、屋島で義経を取り逃がし、壇ノ浦の合戦の際に入水した。一説に、一ノ谷で討たれたともいう。生没年不詳。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「平教経」の解説 平教経 生年:生没年不詳 平安末期の武将。平清盛の弟教盛の次男。母は藤原資憲の娘。もと国盛。仁安1(1166)年伯耆守から民部 権大輔,治承3(1179)年能登守。このころ教経に改名。養和1(1181)年北陸道追討副将軍となる。寿永2(1183)年の平家都落ち以後,一門きっての剛勇の士として知られた。備中水島で源氏を破り,淡路に源義嗣,義久を討ち,伊予の河野通信,紀伊に園部忠康を下し,豊後の緒方惟義,臼杵惟隆を追い落とすなど活躍。『吾妻鏡』では一の谷の戦(1184)で安田義定に討たれ,獄門に懸けられたとするが,『玉葉』はこの首は偽物で教経は生存の風聞を伝え,『醍醐寺雑事記』では文治1(1185)年3月24日壇の浦で自害,時に26歳という。宿敵源義経を追いつめ「義経の八艘飛び」の説話や,阿波(徳島県)祖谷の平家落人部落は国盛の土着と伝える。<参考文献>安田元久『平家の群像』,角田文衛『平家後抄』 (正木喜三郎) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
百科事典マイペディア 「平教経」の意味・わかりやすい解説 平教経【たいらののりつね】 平安末期の武将。生没年不詳。清盛の弟教盛の子。能登守(のとのかみ)。性勇猛,源平の戦に歴戦したが,壇ノ浦の戦では源義経を捕らえようとして失敗,源氏の武士2人を抱いて入水(じゅすい)したといわれる。一説に1184年一ノ谷の戦に捕らえられ処刑ともいう。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平教経」の意味・わかりやすい解説 平教経たいらののりつね [生]永暦1(1160).京都[没]文治1(1185).3.24. 長門,壇ノ浦平安時代末期の武将。能登守,正五位下。中納言教盛の子。初名,国盛。源平の合戦 (→治承の内乱 ) では,水島,一ノ谷,屋島などで奮戦,源氏の軍勢を悩ませた。壇ノ浦の合戦では,源義経と勝敗を決しようとして,義経の軍船を捜し求めて進んだが,義経が逃れたため,敵兵を小脇にかかえたまま入水した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平教経」の解説 平教経 たいらの-のりつね 1160-1185 平安時代後期の武将。永暦(えいりゃく)元年生まれ。平教盛の子。治承(じしょう)3年能登守(のとのかみ),養和元年北陸道追討副将軍となる。寿永2年一門とともに都落ちして各地を転戦。元暦(げんりゃく)2年3月24日壇ノ浦の戦いで,源義経を追いまわしたがにげられ,源氏の武士ふたりを両脇にかかえて入水したとつたえられる。26歳。初名は国盛。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by