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佐藤継信 さとうつぐのぶ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

佐藤継信
さとうつぐのぶ

[生]保元3(1158).陸奥
[没]文治1(1185).2.19. 讃岐,屋島
鎌倉時代初期の武士。陸奥湯の荘司元治の子。忠信の兄。源義経藤原秀衡のもとにいた頃から弟忠信とともに義経に仕え鎌田盛政,光政とともに四天王と称された。屋島の戦いに義経をかばって平教経の矢面に立ち討死にした。

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デジタル大辞泉の解説

さとう‐つぐのぶ【佐藤継信】

[1158~1185]平安末期の武士。源義経の四天王の一人。屋島の戦いで義経の身代わりとなり、平教経(たいらののりつね)の矢で射られて戦死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

佐藤継信 さとう-つぐのぶ

1158-1185 平安時代後期の武士。
保元(ほうげん)3年生まれ。佐藤元治(もとはる)の子。陸奥(むつ)信夫郡(福島県)の人。藤原秀衡(ひでひら)の郎党で,のち弟忠信とともに源義経にしたがい,義経四天王ひとりといわれた。「平家物語」では,屋島で義経をかばって平教経(のりつね)に射殺されたとある。元暦(げんりゃく)2年2月19日死去。28歳。通称は三郎,兵衛尉(ひょうえのじょう)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

佐藤継信

没年:文治1.2.19(1185.3.22)
生年:生年不詳
平安末期の武将。源義経の家人,元は藤原秀衡の従者。信夫庄司の元治の3男。三郎兵衛尉。『吾妻鏡』によれば,義経が挙兵した兄頼朝の下に参陣しようとした折,秀衡が継信,忠信兄弟を義経の従者として遣わしたと記されている。以後彼らは義経と共に各地で平氏と戦い,戦功をあげた。彼らの活躍については,『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。文治1(1185)年2月の屋島の戦において,義経をかばって戦死したと伝えられている。

(伊藤喜良)

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世界大百科事典 第2版の解説

さとうつぎのぶ【佐藤継信】

1158‐85(保元3‐文治1)
鎌倉時代初めの陸奥国出身の武士。陸奥国信夫荘(現,福島市)の大荘司元治の子。もと平泉の奥州藤原氏の臣であったが,少年期の源義経が藤原秀衡の下にいた関係でその郎等となり,弟の忠信とともに義経に従って西日本に遠征,活躍した。1185年2月の屋島の戦のさいに,義経の身代りとして,強弓をもって聞こえる能登守平教経の矢に当たって討死した。【大石 直正】

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大辞林 第三版の解説

さとうつぐのぶ【佐藤継信】

1158~1185) 平安末期の武将。忠信の兄。名は三郎。源義経四天王の一人。屋島で義経の身代わりとなって戦死した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

佐藤継信
さとうつぐのぶ
(1158―1185)

鎌倉初期の武将。陸奥国(むつのくに)信夫庄司元治(しのぶのしょうじもとはる)の子で忠信(ただのぶ)の兄。湯庄司(ゆしょうじ)とよばれた。源義経(よしつね)の乳母子(めのとご)で、かつその臣。義経が奥州藤原秀衡(ひでひら)の下にあったころよりこれに仕え、弟忠信、鎌田盛政(もりまさ)・光政(みつまさ)とともに義経四天王の一人に数えられた。元暦(げんりゃく)2年(寿永4)2月19日の屋島(やしま)(香川県高松市)の戦いに際し、平家の勇将能登守教経(のとのかみのりつね)の強弓から義経を守り、その矢面に立って戦死した。死後、屋島に近い牟礼(むれ)の林に埋葬された。[鈴木国弘]

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