鎌倉初期の武将。陸奥国(むつのくに)信夫庄司元治(しのぶのしょうじもとはる)の子で忠信(ただのぶ)の兄。湯庄司(ゆしょうじ)とよばれた。源義経(よしつね)の乳母子(めのとご)で、かつその臣。義経が奥州藤原秀衡(ひでひら)の下にあったころよりこれに仕え、弟忠信、鎌田盛政(もりまさ)・光政(みつまさ)とともに義経四天王の一人に数えられた。元暦(げんりゃく)2年(寿永4)2月19日の屋島(やしま)(香川県高松市)の戦いに際し、平家の勇将能登守教経(のとのかみのりつね)の強弓から義経を守り、その矢面に立って戦死した。死後、屋島に近い牟礼(むれ)の林に埋葬された。
[鈴木国弘]
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(伊藤喜良)
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