広村堤防(読み)ひろむらていぼう

日本歴史地名大系 「広村堤防」の解説

広村堤防
ひろむらていぼう

安政元年(一八五四)の地震による津波被害後、広村海岸に構築された堤防で国指定史跡。同年一一月四日畿内、東海・東山二道の諸国に地震があり、翌五日に南海・西海・山陽などの諸国にまた地震があった。この二大地震に津波が暴溢し広村は、家屋流失一二五軒、全潰一〇軒、被害家屋総計三三九軒に達し、壊滅的な打撃を受けた。しかし流死人三〇人と比較的少なかったのは(浜口梧陵手記)、醤油業者・洋学者・海防家で教育者でもあった(のち政治家)浜口梧陵の適切かつ献身的な尽力によるところが大きい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「広村堤防」の解説

ひろむらていぼう【広村堤防】


和歌山県有田郡広川町広にある堤防。ここは西に向かって開けた浅瀬の海湾で、記録に残る津波・高波などの甚大な被害は十数度に及んでいる。そのため、室町時代に豪族畠山氏が堤防を築造。その後、1854年(安政1)の大地震(安政南海地震)は、広村の339戸に被害をもたらしたが、戦前の国定教科書の「稲むらの火」にあるように、浜口梧陵は大量の藁の山に火をつけ、2次災害である津波から広村の村人を救い、流出家屋125戸・半壊家屋56戸・死者30人に抑えることができた。その後、地震から教訓を得た梧陵は、同志と大堤防の築造を計画。1858年(安政5)に3年10ヵ月もの歳月を費やして、全長652m、高さ3.4m、上部の幅が7mの広村堤防が完成。堤防の完成と同時に植えた黒松ハゼノキの防潮林は、1946年(昭和21)の昭和南海地震で起こった津波を食い止め、町を守るという重要な役目を果たした。1938年(昭和13)に近世末の土木に関する貴重な遺跡として、国の史跡に指定された。現在、畠山氏の築いた堤防と広村堤防はコンクリートで補強されている。JR紀勢本線湯浅駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

事典・日本の観光資源 「広村堤防」の解説

広村堤防

(和歌山県有田郡広川町)
未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の広村堤防の言及

【広川[町]】より

…紡績工場,しょうゆ工場もある。安政地震の大津波のときに村民を救い,第2次大戦前の国定小学国語読本に〈稲むらの火〉として記された浜口梧陵の出身地で,梧陵の築いた広村堤防(史)が残る。海岸は天洲松原として知られたリアス式海岸の景勝地で,西有田県立自然公園に属する。…

※「広村堤防」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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