広田郷
ひろたごう
中世の郷で広田神社領。「和名抄」武庫郡広田郷の郷名を継いだとみられるが、広田社郷・広田神郷などとも称されるように広田神社の神領が庄園化したもので、同社周辺地域と考えられる。正治二年(一二〇〇)五月二六日の官宣旨案(宮内庁書陵部所蔵壬生家文書)によると神郷に対する不輸不入の権が認められ、事実上庄園化した。このため「伯家部類」正応五年(一二九二)正月一三日条にも「広田社山口庄・相永庄・広田庄」とあるように広田庄とも称された。
広田郷
ひろたごう
「和名抄」所載の郷。同書東急本は「比呂多」と訓じる。「日本書紀」神功皇后摂政元年二月条に、皇后が新羅から凱旋した際託宣によって天照大神を「広田国」に祀ったとあり、同様の記事が「住吉大社神代記」にもみえる。「広田国」は当地域にあたろう。祀った社は「延喜式」神名帳に載る武庫郡広田神社にあたり、現西宮市大社町にある同名社に比定される。同じく神名帳所載の武庫郡名次神社は同市名次町に、同岡太神社は同市岡田山に所在する神社に比定する説がある。
広田郷
ひろたごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は訓を欠くが、伊勢本・東急本は「比路多」と訓ずる。現緑町東端の広田を遺称とする。「常磐草」によると、「延喜式」神名帳に載る岸河神社(小社)は納村(現洲本市)にあって当郷に含まれていたという。また「延喜式」兵部省に淡路国駅馬としてあげられる大野駅も当郷に属していたという。
広田郷
ひろたごう
「和名抄」東急本では訓を欠き、高山寺本には郷名の記載がない。遺称地はなく、比定地として現岩美町高山字広岡(因幡民談記)、同町網代から東の同町陸上までの海岸地帯(因幡志)、同町蒲生川河口付近(鳥取県史)などの諸説があり、他の諸書は海岸部のいずれかに比定するものが多い。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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