日本歴史地名大系 「府中・府内」の解説
府中・府内
ふちゆう・ふない
中世、現直江津地区・
建長八年(一二五六)と推定される九月七日の親鸞書状(親鸞聖人血脈文集)に「善信者流罪越後国府、俗姓藤井善信」とみえる。親鸞は承元元年(一二〇七)法然に連座して越後に流されたが、藤井善信は流罪に際し与えられた俗名。また建治二年(一二七六)三月日の日蓮書状(日蓮聖人遺文)に、文永一一年(一二七四)三月八日佐渡に流されていた日蓮のもとに赦免状がとどき、一三日に佐渡を出立、「同十五日に越後の寺とまりのつにつくへきか、大風にはなたれ、さいわひにふつかちをすきて、かしはさきにつきて、次日はこうにつき」とある。この時期の国府の所在地については諸説あるが、当地であった可能性が高い。
府中・府内
ふちゆう・ふない
中世にみえる地名。古代に置かれた対馬国府(対馬島府)を継承する一帯で、室町期よりみえる対馬の中世の政治的中心地。島主の宗氏は貞茂・貞盛・成職と三代にわたって、対馬北部の
「朝鮮王朝実録」成宗七年(一四七六)七月丁卯条によれば、朝鮮王朝から派遣された対馬島宣慰使の金自貞は五月一三日に島主宗貞国の家の前五里ばかりの
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報