和気清麻呂の長子広世が,平安初期(9世紀の初め)に大学別当(大学頭にあたるか)の職にあって大学教育につくすとともに,平安京大学の南にあった私宅を開いて設けた大学別曹(べつそう)。内外経書数千巻を蔵し,墾田30町を学料にあて,父の志をまっとうしたという。大学の南にはその後藤原氏の勧学院,王氏の奨学院が隣りあって開かれ(橘氏の学館院だけは離れていた),弘文院は和気氏諸生の別曹であったというから,平安時代初期に有力な氏族によって建てられた大学別曹(かつては私立学校とされたが,今では説が改められた)の一つ,しかもその中でもっとも古いものであり,和気氏出身の大学の生徒が,ここに寄宿し,勉学し,大学に通ったかと想像される。和気氏は諸氏族中もっとも微力であり,弘文院も早く廃絶したので,〈四道三院〉などという場合の3院は,弘文院をのぞく他の3院をさしている。
執筆者:桃 裕行
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平安時代、和気(わけ)氏のための大学別曹(べっそう)。和気清麻呂(きよまろ)の長子広世(ひろよ)が8世紀末か9世紀初めに、大学寮の南にあった私宅に創設した。大学別曹としてはもっとも古いもの。和気氏出身の学生(がくしょう)を寄宿させ、書籍数千巻を所蔵して、学生はその蔵書で自習し、大学に通って講義、課試を受けた。墾田40町をもってその経費にあてた。885年(仁和1)菅原道真(すがわらのみちざね)がここに宿泊し、その詩が『菅家文草(かんけぶんそう)』にあるので、9世紀末までは存在したとみられるが、その後まもなく廃絶したらしい。
[大塚徳郎]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
延暦年間(782~806)末頃に,和気広世(わけのひろよ)が父清麻呂の遺志をついで,大学寮の南辺の私宅を寄付して設けた教育施設。古図によれば左京3条1坊6町に所在。儒教・仏教の書籍数千巻を所蔵し,墾田40町を学料として有したという。和気氏の学生(がくしょう)に自習と寄宿の便宜を与える施設と考えられるが,正式の大学別曹であったかどうかには問題が残る。10世紀成立の「西宮記」は和気氏諸生別曹としているが,「今荒廃」とする同書の記述の時点で,十分な典拠となる史料が失われていた可能性がある。848年(嘉祥元)に落雷にあったこと,885年(仁和元)に菅原道真が「秋夜宿弘文院」と題した詩を作ったことが知られ,9世紀末頃までは存続していたであろう。
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…大学寮の南に近接して設けられたものは,大学寮南曹とも呼ばれた。大学別曹には,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,源氏など王氏の奨学院がある。別当,知院事などの職員が置かれ,いずれも各氏族の財源によって運営された。…
…若くして大学寮に学び,文章生に補せられ,803年(延暦22)内舎人(うどねり)に任ぜられ,その後蔵人,内蔵頭,国守などを歴任した。兄広世は父の志をつぎ大学別曹弘文院をたてたが,同じころ真綱と広世は父の事業をつぎ高雄山に神護寺を建立し,最澄の法会を設け,その唐より帰朝後は灌頂の法壇を設立した。つづいて真綱は弟仲世とともに,空海の帰朝後〈金剛灌頂〉の法会を設け,進んでこれをうけた。…
※「弘文院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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