奨学院(読み)ショウガクイン

デジタル大辞泉 「奨学院」の意味・読み・例文・類語

しょうがく‐いん〔シヤウガクヰン〕【奨学院】

平安時代大学別曹の一。元慶5年(881)在原行平設置した私設学寮。諸王同族子弟を教育し、平安末期には衰えたが、形式上の別当職は江戸時代まで続いた。大学南曹

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精選版 日本国語大辞典 「奨学院」の意味・読み・例文・類語

しょうがく‐いんシャウガクヰン【奨学院】

  1. 平安時代の私設学寮の一つ。元慶五年(八八一)在原行平が勧学院にならって設置。昌泰三年(九〇〇)大学別曹として認められた。皇親諸王・同族子弟の教育機関とした。平安末期には衰退したが、別当職などの形式面は江戸まで存続
    1. [初出の実例]「以奨学院大学寮南曹」(出典日本紀略‐昌泰三年(900)九月)

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改訂新版 世界大百科事典 「奨学院」の意味・わかりやすい解説

奨学院 (しょうがくいん)

大学別曹の一つ。平安時代前期には,大学寮に学ぶ各氏族の子弟のための寄宿施設が相次いで設けられ,これが大学寮付属の施設として公認され大学別曹となった。これらの一つとして,和気氏の弘文院藤原氏勧学院,橘氏の学館院についで,881年(元慶5)勧学院の西に設けられたのが奨学院である。創立者は平城天皇の皇孫に当たる在原行平で,設立の目的は,皇族や賜姓源氏などの子弟で大学寮に学ぶ者を寄宿させ,また学資を給することにあった。900年(昌泰3)に大学寮の南曹となり,963年(応和3)には年官を賜ることとなった。しかし,1110年(天永1)奨学院別当源俊明の作った行平の供養文によると,多く領していた田地も失われ,すでに大学別曹としての実質は失われていたことが知られる。ただし形式のみは存続し,公卿別当の名誉的地位源氏公卿第一の人が任ずる規定であり,その称号は中世近世を通じて長く用いられた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奨学院」の意味・わかりやすい解説

奨学院
しょうがくいん

平安時代の大学別曹(べっそう)。881年(元慶5)在原行平(ありわらのゆきひら)が左京三条、大学寮の南、勧学院の西に創設。皇親、諸王をはじめ、賜姓(しせい)源氏、同平氏一族の子弟が寄宿し、大学に通った。900年(昌泰3)大学寮南曹として公認され、勧学院を範として運営され、別当、学頭などを置いた。12世紀には衰えた。奨学院別当職は、そのころから村上源氏の者が、淳和院(じゅんないん)別当とともに世襲し、のちに足利義満(あしかがよしみつ)が源氏長者として両院別当を兼ね、以後、源氏長者たる将軍の世襲として、江戸末期まで続いた。

[大塚徳郎]

『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奨学院」の解説

奨学院
しょうがくいん

王氏の氏院(うじのいん)。平城天皇の孫在原行平(ありわらのゆきひら)が王氏の学生(がくしょう)のために881年(元慶5)に創立。888年(仁和4)に勧学院に準じた「学館」として上表し,認可され大学別曹となったのは行平没後の900年(昌泰3)であり,963年(応和3)には年挙(ねんきょ)が認められた。所在は平安京左京3条1坊4町で,勧学院の西隣。大学寮の南にあったため南曹ともよばれた。源・平・大江・清原・中原などの王氏の学生は,奨学院に寄宿し,大学に登校して授業をうけ,各種の任官試験をうけたり,年挙によって官界に入っていった。職員には公卿別当・弁別当・六位別当(有官別当・無官別当)などがあり,王氏一門から寄付された荘園・封戸(ふこ)などを財源として運用した。別曹としての実質は12世紀初めには失われたが,その形式は存続し,とくに公卿別当は淳和奨学両院別当という名誉職として,中世~近世を通じて存続した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奨学院」の意味・わかりやすい解説

奨学院
しょうがくいん

平安時代の大学の寄宿施設である別曹の一つ (→大学別曹 ) 。藤原氏の勧学院にならって,元慶5 (881) 年在原行平が創設した。皇族出身者である源氏,平氏,在原氏などの子弟を収容した。勧学院の西隣に建てられ,昌泰3 (900) 年には大学南曹と呼ばれている。職員として別当 (→長官 ) ,学頭などがおかれ,別当には源氏第一の公卿がなった。平安時代末期に実質は衰微したが,奨学院別当の名称は,淳和院別当とともに源氏が世襲した。室町幕府3代将軍足利義満以後は,室町,江戸両幕府を通じて,歴代将軍が両院別当となり,形式的に江戸時代末期まで存続した。

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百科事典マイペディア 「奨学院」の意味・わかりやすい解説

奨学院【しょうがくいん】

平安時代の大学別曹(べっそう)の一つ。在原行平(ありわらのゆきひら)が藤原氏の勧学(かんがく)院にならい,諸王・同族の子弟の教育のため881年に設置。900年大学寮の南曹(なんそう)となった。平安末期には実質は失われたが,その別当職は形式的には江戸末期まで存続した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「奨学院」の解説

奨学院
しょうがくいん

平安前期,在原行平が創設した大学別曹
藤原氏の勧学院にならい,その西隣に諸王および在原氏の子弟教育のため学生を寄宿させ,学費を支給して大学へ通学させた。12世紀には衰えたが,村上源氏中院家 (なかのいんけ) が別当職を世襲,室町・江戸時代は将軍家が形式的に世襲した。

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世界大百科事典(旧版)内の奨学院の言及

【大学別曹】より

…大学寮の南に近接して設けられたものは,大学寮南曹とも呼ばれた。大学別曹には,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,源氏など王氏の奨学院がある。別当,知院事などの職員が置かれ,いずれも各氏族の財源によって運営された。…

※「奨学院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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