大学別曹の一つ。平安時代前期には,大学寮に学ぶ各氏族の子弟のための寄宿施設が相次いで設けられ,これが大学寮付属の施設として公認され大学別曹となった。これらの一つとして,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院についで,881年(元慶5)勧学院の西に設けられたのが奨学院である。創立者は平城天皇の皇孫に当たる在原行平で,設立の目的は,皇族や賜姓源氏などの子弟で大学寮に学ぶ者を寄宿させ,また学資を給することにあった。900年(昌泰3)に大学寮の南曹となり,963年(応和3)には年官を賜ることとなった。しかし,1110年(天永1)奨学院別当源俊明の作った行平の供養文によると,多く領していた田地も失われ,すでに大学別曹としての実質は失われていたことが知られる。ただし形式のみは存続し,公卿別当の名誉的地位は源氏公卿第一の人が任ずる規定であり,その称号は中世・近世を通じて長く用いられた。
執筆者:柳 雄太郎
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平安時代の大学別曹(べっそう)。881年(元慶5)在原行平(ありわらのゆきひら)が左京三条、大学寮の南、勧学院の西に創設。皇親、諸王をはじめ、賜姓(しせい)源氏、同平氏一族の子弟が寄宿し、大学に通った。900年(昌泰3)大学寮南曹として公認され、勧学院を範として運営され、別当、学頭などを置いた。12世紀には衰えた。奨学院別当職は、そのころから村上源氏の者が、淳和院(じゅんないん)別当とともに世襲し、のちに足利義満(あしかがよしみつ)が源氏長者として両院別当を兼ね、以後、源氏長者たる将軍の世襲として、江戸末期まで続いた。
[大塚徳郎]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
王氏の氏院(うじのいん)。平城天皇の孫在原行平(ありわらのゆきひら)が王氏の学生(がくしょう)のために881年(元慶5)に創立。888年(仁和4)に勧学院に準じた「学館」として上表し,認可され大学別曹となったのは行平没後の900年(昌泰3)であり,963年(応和3)には年挙(ねんきょ)が認められた。所在は平安京左京3条1坊4町で,勧学院の西隣。大学寮の南にあったため南曹ともよばれた。源・平・大江・清原・中原などの王氏の学生は,奨学院に寄宿し,大学に登校して授業をうけ,各種の任官試験をうけたり,年挙によって官界に入っていった。職員には公卿別当・弁別当・六位別当(有官別当・無官別当)などがあり,王氏一門から寄付された荘園・封戸(ふこ)などを財源として運用した。別曹としての実質は12世紀初めには失われたが,その形式は存続し,とくに公卿別当は淳和奨学両院別当という名誉職として,中世~近世を通じて存続した。
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…大学寮の南に近接して設けられたものは,大学寮南曹とも呼ばれた。大学別曹には,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,源氏など王氏の奨学院がある。別当,知院事などの職員が置かれ,いずれも各氏族の財源によって運営された。…
※「奨学院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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