漆器の加飾技法の一つ。器形を構成する素地(きじ)(胎)は,一般に木材を用いる場合が多いが,金属胎や磁胎,乾漆胎もある。技法は,素地の表面に漆を数十~100回あまり塗り重ねて適当な厚さにした漆層に刀で文様を浮彫状に表したもの。漆の色や文様の違いによって,堆朱(ついしゆ),堆黒,堆黄,屈輪(ぐり),彫彩漆(紅花緑葉)などの名称で呼ばれる。これらは元来中国で盛んに行われたもので,中国では堆朱を剔紅(てきこう),堆黒を剔黒,堆黄を剔黄,紅花緑葉を剔彩ともいう。またくりくりとした屈曲文様をもつ屈輪は,明代隆慶年間(1567-72)ころに黄大成によって著された《髹飾録(きゆうしよくろく)》にはその名称がなく,縧環,重圏,圏文,雲鉤などと表されている。
彫漆は《髹飾録》によれば唐代に起こったとあるが,よく製作されるようになったのは宋代以降である。宋代にはとくに,屈輪の一種で犀皮(さいひ)と呼ばれる作品が主流であった。犀皮は朱と黄の漆を交互に塗り重ねた層に渦巻文のような曲線文を彫刻する。南宋になると抽象的な曲線文の屈輪が行われるとともに図様に写生の傾向が現れ,画題も人物故事に由来する作品がみられるようになる。著名な作例に,円覚寺の開山無学祖元将来と伝える酔翁亭図堆黒盆がある。元代になると製作活動も盛んになり,花卉や花鳥の絵文様が好まれた。技術の進歩とともに彫りも深浅自由に,写実的で動きのある描写の作品が現れた。また名工として浙江省嘉興府西塘楊匯出身の張成と楊茂が現れた。日本でも彼らの作品が尊重され,室町時代の《君台観左右帳記》に〈作は張成第一上也。楊茂第二。周明同〉と記され,当時の公家や禅僧の日記にも彼らの作品が散見される。確かな作者銘をもつ遺品は滋賀県の聖衆来迎寺の紫萼堆朱盆で,〈張成造〉の針書銘が底裏にある。
明代になると,張成の子の徳剛が成祖の永楽期(1403-24)に官営工場の果園厰で堆朱を盛んに作ったが,宣徳期(1426-35)には文様構成が複雑になるとともに,彫法も細部にいたるまで神経をくばり,変わった器形のものが出現し,装飾過剰な傾向へと向かった。このころ,日本で〈はしか彫〉といわれる彫法がみられるようになる。この表現法は比較的浅く彫るが,文様の稜線が鋭くとがって切り立って鋭い線条からなっている。嘉靖期(1522-66)ころには,彫彩漆が流行した。この表現法は朱と緑の彩漆(いろうるし)を交互に塗り重ねて,文様の花卉の花の部分には朱,葉の部分には緑の層面があたるように文様を彫刻した技法で,日本では〈紅花緑葉〉と呼ばれた。さらに堆黄は,万暦期(1573-1619)にもっぱら製作された。
中国産の彫漆器は唐物として日本の鎌倉・室町時代に盛んに輸入され,尊重された。禅家や公家,武家の社会では座敷飾の道具として,茶道具あるいは贈答用品として重宝されたことは,当時の公家や禅僧の日記によって知られる。その品目は,盆,盤,薬合,薬器,香合,香箱,印籠,食籠,天目台,碁笥(ごけ)などであった。
彫漆は製作の費用と日数がかかるので,日本ではより軽便な製作の類似品が作られた。それは木彫に漆塗した鎌倉彫で,彫漆の文様を題材にとり,主として禅家を中心とした仏教関係用具に活用された。また,日本での彫漆製作は室町中期ごろ,堆朱楊成によって始められ,以後彫漆作家の主流として,その子孫は祖名を継承している。
→漆工芸
執筆者:郷家 忠臣
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…おもなものには青海波塗,津軽塗,竹塗,七子塗,紫檀塗,石目塗がある。 加飾法には蒔絵,沈金,螺鈿(青貝),彫漆,箔絵,錆絵(さびえ),漆絵,蒟醬(きんま),平脱(平文(ひようもん)),堆錦(ついきん),密陀絵などがある。それぞれ,時代や地域によって多くの種類が生み出された。…
※「彫漆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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